歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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賈充とは~ まとめ

賈充のことを、中国史上の権臣たちと同様に、

権力を極めようとしたと考えると、見誤る。

賈充はトップとして、責任を取りたくないタイプだ。保身の人である。

頭がいいので、ギャンブルをする勝負師にも見えるが、実態は非常に慎重で臆病な人物だ。

 

 

 

賈充は生年217年ー282年に死没。

父の賈逵は、賈充11才の時に死去。

父の賈逵は、豫州刺史として格別な成果を上げた。

人臣・民に慕われるほどの人物だった。

しかしながら、揚州諸軍事曹休と折り合いが悪く、

中央で高位に登れなかった。

 

賈充は賈逵が死去する前に、多分元服できていない。

賈逵の後押しがない中で官途につかなくてはならなくなった。

 

推挙してくれたのは、

吏部尚書の何晏。

正始の音のリーダーで、曹爽一派であった。

なんとか中央に行けたものの、

正始政変で、曹爽・何晏は司馬懿に誅殺される。

賈充もこの政変の後、一度免職になっている。

 

さらにまずいことに254年に舅李豊が反乱の疑いで

司馬師に誅殺される。

賈充は李豊の娘を娶っていた。

李豊はどっちつかずの風見鶏的な批評を受けていた人間で、

評価は高くないが、

見識は確かであった。

また、李豊の息子李韜は、魏明帝の娘斉長公主を娶っていた。

賈充は義理の関係で、斉長公主と兄弟関係となっていた。

 

 

254年の時点の賈充は、

・元曹爽一派、

・反乱を企図した李豊の姻戚

・魏皇室とも姻戚関係

 

と全くの経歴であった。

 

李豊の乱の後すぐに賈充は妻を離縁する。

そして、郭淮の姪を正妻として娶った。

 

しかし、

255年の毌丘倹の乱には、

司馬師に参軍として従事。

その後の司馬師急死の際には、軍権を譲り受け、

司馬昭には受け渡している。

賈充は司馬師・司馬昭兄弟に信頼をされている。

 

もしかしたら、

郭淮の姪を娶ったことが響いているのかもしれない。

郭淮は251年の王凌の乱の時に連座しかかった。

郭淮の正妻が王凌の妹だったからだ、

しかし、司馬懿に許してもらっている。

元々郭淮は司馬懿とともに戦陣を踏むことが多かった武人。

キャリアは、対蜀戦線が多く、手堅い武人であった。

郭淮自身は255年に死去している。

 

このルートでの賈充推挙があった可能性は高い。

 

事実、賈充はこの妻に頭が上がらなかった。

賈充は恐妻家としても知られている。

 

しかしながら、

賈充のキャリアは反司馬氏である。

 

妻の実家の後押しとはいえ、

非常に不安定なものである。

 

司馬氏に信頼される功績を挙げなくてはならない。

それが、

257年

諸葛誕の乱だ。

これを賈充は諸葛誕に鎌をかけ、

乱を引き起こさせる。

曹爽一派に近かった諸葛誕を賈充は売った。

 

この詳細な事情を司馬昭は知らなかっただろうが、

賈充は司馬昭からの信頼を得た。

 

そうして、

賈充の娘、李豊の娘との子でもある、

この娘を、司馬攸に嫁がせる。

もちろん司馬昭の要請だ。

 

司馬攸は、司馬師に養子に出されていた。

本来は司馬師の後を継ぐはずだったが、

司馬師が早くに死去してしまい、

宙に浮いた存在になっていた。

 

司馬昭にとっても司馬攸は大変可愛い存在だったようで、

自分のベッドを指して、これは司馬攸のものになると言っている。

 

当然司馬炎にとっては司馬攸は煙たい存在だった。

この兄弟は12歳の年齢差がある。

 

急遽司馬氏の舵取り役を引き継ぐことになった司馬昭は、

賈充のリーダーシップ、グランドデザイン力が頼りになった。

 

合わせて司馬攸の後見もお願いしたのだ。

 

260年に魏皇帝曹髦が司馬昭討伐に立ち上がる。

中護軍の賈充は、諸大夫が皇帝に恐れ慄いて引き下がる中、

軍勢を率いて立ちはたがる。

そうして、部下に皇帝を弑逆させた。

ここに皇帝は歴史上初めて衆目のあるなか家臣に殺された。

 

司馬昭は、

賈充を罰することができなかった。

賈充は今後の司馬氏の在り方を考え、進める上で

必須の存在であった。

しかしながら、皇帝を弑逆するという大逆に関しては、

何か始末をしなくてはならない。

曹髦崩御後の朝廷に出席しなかった、

陳泰に事後対応を相談する。

 

陳泰は賈充を腰斬すべしと。

しかしそれはできない。

それ以外はというと、

資料により陳泰は返答したりしなかったりしているが、

司馬昭自身の処罰しかないと言っている。

 

陳泰の父と、司馬昭の父は、魏の創業の功臣同士だ。

すなわち陳羣と司馬懿である。

魏の法律は、陳羣が作った。魏律である。

 

陳泰は、法家の父陳羣の遺訓を継いでいる。

陳泰自身は文武両道の名臣の一人だ。

 

賈充の腰斬は言ったであろう。

 

しかし司馬昭は賈充を処罰しなかった。

実際に曹髦を刺し殺した成済を処刑することで

お茶を濁した。

 

賈充はなくてはならない存在と既になっていた。

また司馬攸が司馬昭の後を継がせるには、絶対に処刑してはならなかった。

 

263年 鍾会の建言により、対蜀征伐。

蜀を滅ぼす。

その後の鍾会の反乱の際には、

賈充が長安まで軍勢を率いて前線に出向いている。

司馬昭の名代である。

 

265年に司馬昭が中風(脳の病気)で

急死。

この直前に賈充は司馬昭から司馬攸に後を継がせたいと言われている。

 

司馬昭が263年に晋公になったときか、

264年に晋王になった時だ。

 

しかし賈充は司馬攸の後見を断り、

司馬炎を後継ぎとすることを勧めた。

 

賈充はギャンブルをするタイプではない。

一人で権臣になるつもりもなく、高位にいれればよかった。

 

賈充が高位に昇ったのも、賈充の精一杯やった成果であり、

ギャンブルではない。

 

賈充が司馬昭に

司馬炎を勧めたのを、司馬昭自身が司馬炎に伝えたという話がある。

少し疑わしいエピソードだが、

賈充が意図的に伝えていたとしても、事実なのだからよいであろう。

 

賈充自身はこれにより司馬炎から非常に信頼された。

 

司馬昭の死去の後も、司馬炎から賈充は信頼をされ続ける。

司馬炎にとっては、弟でライバルの司馬攸の舅であるにも関わらずだ。

 

賈充は、魏晋革命後、

西晋の法律の制定に携わった。

すなわち泰始律令である。

 

刑罰は緩やかになり、禁令はシンプルになった。

古代の理想に勝るものと評価された。

 

270年から、

関中方面で

鮮卑の

禿髪樹機能の乱が起きる。

 

賈充はこの前に司馬炎に対して、

晋の統治状況が良いので、地方の軍勢を減らすべきという

建言をしていた。

このため、地方の軍勢が削減されたため、

鮮卑の禿髪樹機能が暴れ始めた。

 

物資の掠奪、民をさらうのである。

 

賈充を煙たがっていた司馬炎の側近任愷(じんがい)は、

司馬炎に建言する。

 

賈充を出鎮させるべしと。

 

司馬炎からすれば、

賈充はどんな時も司馬氏のために仕えてくれて、

成果を必ず挙げてくれた。

司馬炎自身にも忠実で信頼ができる。

 

鮮卑の乱も賈充を遣わせば、

全く問題ないと司馬炎は考えた。

司馬炎は、車騎将軍・侍中のまま、雍涼州

 

しかし、賈充は法の才能はあるが、

軍事における応変の才能はない。

 

何よりも、賈充は中央にいることが大事なのである。

高位に居続ける、そうあり続けられるかどうか不安で仕方がないのある。

 

司馬炎は、曹丕・曹叡にとっての祖父司馬懿、

劉備・劉禅にとっての諸葛亮のように、

賈充を思っていたのかもしれないが、

そこまでの人物ではない。

 

過度な期待をされ過ぎてしまったのが賈充なのだ。

 

賈充は焦った。

司馬炎には全くそのつもりはなかったのに、

賈充は中央から外されることに心底焦った。

 

賈充は

荀勖(潁川荀氏。曽祖父は後漢の荀爽。母は鍾繇の娘。)に相談した。

関中行きを断ることはできないが、

太子に賈充の娘を嫁がせれば、出鎮は逃れられるだろうと。

 

荀勖が司馬炎に太子の縁談を持ちかけた。

賈充の娘を娶るのはどうかと。

 

司馬炎はこれを訝ったという話があるが、

私は、この荀勖の提案を、司馬炎はとても喜んだと主張する。

 

司馬炎の太子、すなわち西晋恵帝は、生年259年ー没年307年である。

ちょう正妻を娶っても良い頃合いだ。

 

しかしながら、

賈充は既に司馬攸の舅である。

司馬攸は君子としての評判も高かった。

 

司馬攸は司馬炎の12歳年下であり、

世代が少し下がる。

司馬炎の後継問題が巻き起こるのはもう10年後の話だが、

賈充が司馬攸を後見しているのは間違いない。

 

また、わざわざ、家同士の結婚で司馬師と賈氏の姻戚関係は成り立っているのに、

もうひと組の子弟を成婚させるなど聞いたことがない。

 

司馬炎は太子に賈充の娘を、という考えは鼻から考えていなかっただろう。

 

そこに、荀勖の提案だ。

 

太子の代になったら、叔父の司馬攸がもっと出張ってくる可能性は大いにあり得る。

賈充が後見しているとなれば、可能性は非常に高くなる。

司馬炎は、弟なのに本家司馬師の家を継ぐことになっていた、

司馬攸を好ましいと思うことはないのだ。

 

その司馬攸から賈充を引き剥がすことができる。

 

司馬炎にとって願ってもいない提案だ。

 

これに乗った。

 

賈充はこれで関中に出鎮しなくて済んだ。

 

賈充はとにかく、軍事と中央から離れることを恐れた。

 

280年の対呉征伐も最後まで反対。

司馬炎からは、賈充に征伐軍の総帥として、

呉を攻めて欲しいと言われても、受け入れない。

 

最後は賈充が行かなければ、司馬炎自身が行くと言われて、

ようやく重い腰を挙げた。

 

対呉征伐中も、度重なる征伐中止の嘆願。

周知の通り、羊祜と杜預がお膳立てを済ませていて、

まさに時は熟していたにも関わらずだ。

 

対呉征伐は成功したが、

度重なる中止嘆願のため、

 

賈充は司馬炎に謝罪をしている。

 

282年に賈充は死去。

後継は外孫で異性の

韓謐を夭逝した息子の養子にして後継とした。

全く礼に反したことだが、司馬炎に公認してもらった。

 

身内に言われて、渋々礼制に反したことをする、

気弱な賈充をここでも私は感じる。