歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

魏後廃帝曹髦とは何者か。

・曹髦は、儒家思想と玄学清談の両方に通じていた。
・側近は、反司馬氏で固められている。
・魏の皇帝らしく、詩や文学に通じていた。

結論として、武略は未知数だが、相当に学問を修めた優秀な皇帝と言える。

曹髦は、生年241年11月15日(正始2年9月25日)、
没年260年6月2日(甘露5年5月7日)である。

19歳で世を去っている。

在位期間は254年から260年。
皇帝位にあったのは、6年間だ。

13歳のときに即位。

曹丕の孫である。
父は曹霖(そうりん)。

司馬師死去の際、兵権を取り上げようとしたが失敗した。誰の起案か。

曹髦は非常に学問に真摯に取り組んだ。
古くからの儒家思想と、当該時代最先端の玄学清談についても学んでいた。

まず、王祥を師父として、師事する。
王祥は、瑯邪王氏で、元の時代に選定された「二十四孝」の一人である。
曹髦は王祥を師父として学んだ。
王祥に南面させ、師事した。
明王・聖帝、政治の要諦などを学んだ。
王祥は、臣下としては晋書で最も初めに出てくる。後世からの評価が高い人物だ。
王祥の異母弟の孫が、東晋の王導である。
瑯邪王氏が名を挙げたのは、王祥からだ。

また、曹髦は

・王沈(曹髦に「文籍先生」と呼ばれた。)
・裴秀(曹髦に「儒林丈人」と呼ばれた。)
・司馬望
・鍾会
の四名と交わりを深めた。

曹髦はいったい何をしていたのか。文学論をしていたとある。
様々なことを論議していた。これは、多分清談の一種である。

清談というのは、哲学である。
世の事象を、論理的に解釈するものである。
昔からこうだから、これからもこうだという、守旧思想とは異なる。
自ずから、最先端となる。伝統的な価値観・社会に挑戦的なものとなる。
文学論自体が実は、挑戦的なものなのだ。

曹髦が交流を深めていたこの4名の事績を調べる。


王沈(?ー266年)・・・代表的名族・太原王氏の出身。
つまり、
後漢の王允や、
251年に司馬懿に乱を察知されて誅殺された王凌と
同族である。
曹爽の副官であった。

曹髦が260年に司馬昭を殺害しようとした事件では、
王沈は司馬昭に密告した。



裴秀(224年ー271年)・・・
のちに代表的な名族の一つとなる、河東裴氏の出身。
陳寿の正史三国志に註を付けた、東晋の裴松之も同族だ。

裴秀は、毌丘倹の推挙で、曹爽に採り立てられた。
正始政変で曹爽一派とみなされたか、一度免職になっている。

西晋成立の功臣として名を挙げられている。
司馬昭には、とても信頼されていた。
晋書賈充伝には、
賈充と並んで、裴秀・王沈・羊祜・荀勗が、腹心として信頼されたとある。
司馬昭以後の司馬氏政権のプランニングを行なった賈充の次ということになる。
西晋で司空まで昇る。

非常に精巧な地図を作成した。
「禹貢地域図」「地域方丈図」

何晏が作ったとされる五石散中毒で亡くなった。

司馬望(205年ー271年)・・・
年齢は、司馬師の3歳年上、司馬昭の6歳年上である。二人の従兄弟である。

司馬孚の息子で、
司馬孚の長兄司馬朗の養子として後を継いでいた。
司馬望自身は、司馬昭の治世になってから、
都督雍涼州諸軍事として出鎮。蜀漢の姜維の進行が増える時期だったが、
司馬望の赴任後は、付け入る隙を見せなかった。

雍涼州諸軍事は、
郭淮(249ー255年)→陳泰(255年ー256年)→司馬望(256年ー262年)
→鍾会(262年ー)

という順序で任命されている。
つまり、すぐに転任した陳泰はともかく、
郭淮よりも上だったという人物である。

そして、この手堅い雍涼州諸軍事司馬望を鍾会に替える。
それは蜀漢征伐のためだった。

私は司馬望自身が少なくとも蜀漢征伐に乗り気ではない、
本来は反対だったと考える。

鍾会・・・鍾繇の末子。
鍾会は、鍾繇の嫡男ではない。嫡男は鍾毓である。
鍾毓は生年不明で、263年に死去している。
皇帝曹芳を廃する司馬師の上書に連名している。
鍾会の乱は264年なので、鍾毓はその前に死去している。

竹林七賢のひとり王戎(瑯琊王氏)を推挙。

鍾会は、形名学派であった。(論理学)

若死にした王弼(おうひつ)と交流が深かった。
王弼は何晏とともに玄学を創始した。
鍾会自身も何晏と交流が深かった。

鍾会自身、「才性四本論」というものを著している。
これは、人を採用(評価)するのに、
才能を重視するのか、人柄(性)を重視するのかということを
論じているものである。
これを論じているのは、
傅嘏、鍾会・李豊・王広の四人である。
才性の捉え方を論じていて、
傅嘏は「同」、
李豊は「異」、
鍾会は「合」、
王広は「離」を
それぞれ主張した。しかし、内容はほとんどわからないようだ。

才能と人格が
同一か、異なるものか、合わさっているものか、全く別物か
ということを論じているのだと思われる。

これを論じることこそ、まさに清談の本流である。
時勢は、人柄(性)重視に傾きつつあるが、
曹操以来の魏は、才能重視であった。
この是非を問うものである。
これは完成した後、鍾会は、竹林七賢の一人嵇康に見てもらいたくて、
嵇康の自宅を尋ねようとするが、批評を恐れて、
嵇康の自宅内に著書を投げ入れたという話がある。

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▼才性四本論についての世説新語の注。
魏志曰、会論才性同異伝於世。
四本者、言才性同、才性異、才性合、才性離也。
尚書傅嘏論同、中書令李豊論異、侍郎鍾会論合、屯騎校尉王広論離。
文多不載。
(一)『魏志』にいう、「鍾会は才性同異を論じて、世に伝えられた。四本とは、才と性が同じとするもの、才と性が異なるとするもの、才と性とが合する

とするもの、才と性とが離れるとするものをいう。尚書傅嘏は同じきを論じ、中書令李豊は異なるを論じ、侍郎鍾会は合するを論じ、屯騎校尉王広は離れるを論じた。」文が多いので載せない。
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王沈・裴秀・鍾会は、
曹爽・何晏一派であった。
王沈は誅殺された王凌の一族。
裴秀は誅殺された毌丘倹に推挙され世に出た。
鍾会は確実に玄学清談派である。

実は、王沈・裴秀・鍾会は、反司馬氏なのである。
積極的・消極的はあっただろうが、反司馬氏に位置付けられる。

問題は司馬望だ。
司馬昭が鍾会の進言を受け、蜀漢討伐を実行しようとした時、
雍涼州諸軍事を外した事実に注目したい。
司馬望は蜀漢討伐に積極的ではなかった。
事実、蜀漢討伐は鍾会のみ賛成だったので、これは事実であろう。
同じ司馬氏でも、司馬望自身は司馬昭の統制が聞く相手ではない。

また、曹髦が弑逆された後、
司馬望の父司馬孚がその死を率先して悼んでいる。

司馬望が司馬氏の一員とはいえ、
司馬昭に賛意を示していたわけではないことがわかる。


さらに、
王沈・裴秀・鍾会の三人は、
司馬昭が高位に付けている。司馬昭自身も、
私は広い意味での玄学清談派だと考える。
王沈・裴秀に至っては、司馬炎にも登用されている。

事実はややこしい。
司馬懿・司馬師は、曹爽一派を打倒し、(正始政変)
それらが玄学清談を推進したので、弾圧した。
だが、最先端の思想である玄学清談は、
当然各名族に支持された。
正始政変に主導的に関わっていない、
司馬昭が玄学清談に関心が高かった可能性は非常に高い。
竹林七賢の一人阮籍の娘を司馬炎に嫁がせようとして粘ったほどだ。
玄学清談に理解のあった司馬昭の元で、
玄学清談の流れは生き残る。

王沈・裴秀・司馬望・鍾会の四人は、
曹髦に皇帝復権を期待したのではないか。

そもそも司馬昭には玄学清談に
同感なのだ。
しかし、曹髦が突発的行為に出た。
それで弑逆された。

その意思を継ぐ者が
鍾会である。







石苞・・・貧しい身から成り上がった。曹髦謁見後、司馬昭に対して、曹髦のことを
曹操の生まれ変わりだと絶賛している。

高貴郷公集というのが四巻あったとのことだが、
隋代には失われてしまっていた。どうやらこれは詩集であったようだ。
ということは、正始政変で滅亡した曹爽一派と同様の
志向ということだ。
あの正始政変で、魏の成立以来盛んだった文学は衰退することになった。

その流れを創った、司馬氏に対する曹髦の挑戦とも捉えられる。

そもそも、魏は三曹(曹操・曹丕・曹植)以来文学が盛んである。

曹丕は自身を編纂の「典論」の中の、
自著「論文」にて、下記の有名な言葉がある。

「文章は経国の大業にして不朽の盛事なり」

これだけ知ると、さすが中国、著名な三曹は、中国の杜甫・李白に続く
文学の歴史を創ったのだと理解しがちだ。
文学といって、雅な印象だけを抱いてはいけない。
この時代の文学は、旧勢力への挑戦なのだ。

その理由は二つある。

①この三曹の文学は、伝統的儒家正典に対する挑戦でもある。

そもそも、儒家の四書五経の用法に則って文章を書く当時の用法で、
それを墨守することが名族・士大夫の条件であった。
この三曹のやり方は、伝統に囚われないということを主張している。

つまり、自由に漢語を使って、詩を著せということだ。

日本が太平洋戦争中に、英語で曲を作るようなものだ。

三曹は伝統的社会に喧嘩を売ったわけだ。

②杜甫・李白の詩は、鮮卑語をはじめとした周辺言語が流入して、
生まれた、新しい漢語である。

これは言語学者岡田英弘氏の著作に詳しい。

漢語・中国語は、表意文字から始まる。

しかし、中華の周辺地域の言語、
日本語も含まれるが、これらは表音文字から始まる。

中華周辺地域の語順が非常に似通っているのは、
よく知られているところだ。

そもそも、人間が自身の生活の中で、
叙情的に言葉を使う。
それを文字として表すと、表音文字になる。

表音文字にその端を発する言語の方が、
詩は得意である。

漢語は、叙情を表すのが苦手である。
叙事に得意な言語である。


魏の後廃帝曹髦は、曹操の遺風を良く継いでいた。
その賢さが、時代に合わず、殺害された。