歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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曹髦 儒家伝統を踏まえた論理的結論は論理的特攻。

曹操を彷彿させるような、曹髦のスタンス。

 

儒家的名族の王祥を師父として学ぶ。

 

王沈・裴秀・司馬望・鍾会とともに、

学問を議論する。

 

この四人は師ではないのだ。

 

この見識を持って、自身を論理的に考えたであろう。

 

皇帝なのに、実権がない。

 

本来あるべき姿ではない。

 

天下は本来遍く皇帝のものである。

 

しかしその臣下が勢力を伸ばす。

その臣下の勢力が、皇帝とイコール、

もしくは皇帝を凌駕するときに

禅譲、もしくは放伐が行われる。

 

理屈で考えればこうなる。

 

そこで、曹髦はこのように考えたのではないか。

皇帝の身体のことを玉体というが、

玉体を刃で傷つけてはならない。

 

昭和天皇が手術をするときに、問題になった

ことを思い出して欲しい。

それほど皇帝に刃を向けるということは

あってはならないことだ。

 

曹髦自身が、皇帝であるのなら、

刃を向けられない、傷つけられることはないだろう。

 

であれば、皇帝曹髦自身が司馬昭を

殺しにいけばいいのである。

誰からも傷つけられることはないのだから、

事は成就する。

 

輿論に対する曹髦の皮肉だ。

 

曹髦は、

「司馬昭之心、路人皆知」

と言った。

司馬昭の心のうちは、

道行く人誰もが知っている、と。

 

司馬昭の禅譲の野心を世間が皆知っていることを

曹髦は言っている。

 

なので討伐するのだと。

 

よく言われるのが、

曹髦は司馬昭に対して九錫を賜るのだが、

司馬昭は固辞するために、その偽善に怒りを覚え、

この行動に出たと言われる。

 

司馬昭およびその側近たちが、

輿論の値踏みをしていたのは間違いないだろうが、

この時点で司馬昭が確実に禅譲を狙っていたかというと、

私は疑問を覚える。

 

いくら世間が魏の皇帝が嫌で、

司馬昭が良くても、

禅譲を受けるほどの著しい事績を挙げているわけではない。

司馬昭自身がそれは分かっていたはずだ。

 

曹髦もそれを分かっていた。

 

それだからこそ曹髦は賭けに出た。

 

王沈・王業は、曹髦の司馬昭打倒の意思を、司馬昭に伝えた。

王経は、曹髦を諌めたにとどまり、のちに三族粛清された。

 

曹髦は殿中の奴隷兵・奴僕を連れて突進。

司馬昭の大将軍府を目指す。

 

司馬昭の弟屯騎校尉司馬は、兵を連れ、曹髦に出くわしたが、

曹髦配下の一括により、兵が四散した。

 

その後賈充に出会う。

賈充は司馬望の後任の中護軍であった。

宮城を守る役職である。

 

賈充は、

「公(司馬昭)がおまえたちを養っていたのは、

まさに今日のためである。今日の事は

いかなることも罪に問わぬ。」

 

そうして成済は、曹髦を矛で突き刺し、

弑逆した。

曹髦の結論は、賈充によって突き崩された。

曹髦のある種の皮肉、皇帝という玉体に刃を立ててはならない、

は、先進的な考えを持つ、リアリストの賈充によって、

打ち破られた。

皇帝はここに人間となった。