歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

清談の祖は曹操だ

玄学清談とは何か。

 

様々な説明があるが、

一言で言うと、これは哲学と人物評価のことである。

 

では哲学とは何か。

物事を抽象的に論理アプローチで理解することである。

 

物事ひとつひとつを論理的に考える。

様々な論理的に考えると、

抽象的に概念が見えてくる。

 

一種の法則だ。

 

それを論じ合う。これが清談だ。

 

 

つまりなぜなのかを考えること。

そしてどういう人物を評価すべきなのかを考えること。

 

この二つが玄学清談である。

 

このリーダーが何晏と言われている。

正始の音と呼ばれ、正始年間に流行した。

 

従来の儒学に対して、玄学とよばれる。

 

それで、玄学=老荘思想ということらしい。

 

本当にそうなのだろうか。

 

何晏は、「老子」の解釈として、

「道論」「徳論」を著している。

一方で「論語」の注釈として、

「論語集解」(ろんごしっかい)も著している。

 

また、何晏と並ぶ、正始の音の思想家、王弼は、

「老子注」「周易注」を著している。

王弼は老子よりも孔子を評価している。

 

これらは、老荘思想を論じるというよりも、

今まであった考え方を論理的に考え、まとめ上げるものだ。

決して老荘思想に特化したものではない。

 

注釈が多いことがその表れだ。

 

それで私は気づいた。

 

何晏を何晏たらしめたのは誰だったのか。

何晏は曹操の養子として大層可愛がられたという

エピソードを思い出した。

 

何晏は曹操の薫陶を受けているのだ。

 

そして、曹操こそ、孫子の注釈を書いている。

魏武註孫子。

 

我々が今日読む孫子は曹操の魏武註孫子のことである。

 

注釈のはじまりである。

 

 

 

玄学清談とは

物事を論理的に考えることである。

 

 

何晏は、

物事を論理的に考えた結果、

古典の注釈を著した。

注釈の初めは曹操である。

何晏は曹操の薫陶を受けていた。

 

物事の本質を探すさぎょうである。

 

そう言われてみると、

諸葛亮の入蜀時のエピソードを思い出す。

 

諸葛亮は入蜀時に

法を厳しくした。

 

それを法正に諌められている。

それに対する諸葛亮の反論は、

 

劉璋(劉備の前に蜀を治めていた)は、

法を厳格にせず、徳政も行われなかった。

上がいる意味・価値を感じていなかった。

それに対して、

厳格な法を施行することで、

悪行が抑えられれば、皆恩愛を知る。

身分を定めて、栄誉を知る。

そうして、上下の節度が生まれる。

これこそが政治の肝要である、と。

 

秩序が生まれるわけだ。

 

諸葛亮は蜀漢成立前に、蜀科という法律を制定している。

厳正なものだったが、公平にしこうされたので、

人心を得た。これが蜀漢の内政の強さ、蜀兵の強さにつながる。

 

この諸葛亮のやり方は、

セオリーではなかった。

 

高祖劉邦は、関中に入った時に、

三条の法律を施行した。

それまでの厳正すぎる秦の法律を意識しての

簡略化だ。

 

そもそも、儒家の理想は、古代の徳治政治である。

法律は簡略で、上に立つものの徳行で世が治るというものだ。

 

なぜ、諸葛亮は高祖劉邦と同じように

緩やかにしないのかと批判された。

 

それに対して諸葛亮は本質を分かっていないと

反論した。

 

秦は酷刑、

それで高祖劉邦は三条にした。

劉備以前の蜀は緩やかすぎた。

だから厳しくすると。

 

諸葛亮は本質を考えている。

 

論理的に物事を考えているわけだ。

 

広い意味で言えば、諸葛亮も玄学清談派だ。

 

批判をしたのが、

儒家のあり方。

良い古例に忠実に。

諸葛亮はその本質を説く。

これこそが、玄学清談派のあり方だ。

 

曹操も何晏も、春秋左氏伝に注釈を付けた杜預も皆その流れにある。

 

司馬師すらも本当はこの流れだ。

司馬懿もである。

曹丕も、典論で、文学を論評している。

 

ある程度の知識人は、

みな玄学清談の流れを受けている

 

もう少し極端な事例を言うと、

曹操と曹丕が遺言した薄葬も非常に現実主義だ。

特に前漢は豪奢な葬儀を行い、陵を作ったが、

曹操・曹丕は、それを拒否している。

 

曹丕は、副葬品を禁じる。

盗掘を免れる墓などなく、滅びない国などないと言っている。

合理主義と言える。当時の人からすれば、理解しえない部分すらあったであろう。

曹丕のような、進歩的な合理主義についていけない人は、

たくさんいたであろう。

 

 

その流れが進歩的過ぎて、

魏のあり方が時代を先取りし過ぎて、ついていけなかった。

進歩主義すぎる、現実主義すぎる、合理主義すぎる。

 

その不満が噴き出たのが魏末だ。

 

 

曹叡が最も現実的、というか、

真面目過ぎたのか、利己主義だったのか。

口先だけの議論ではなく、

目に見える実績を挙げろ、実務をしろということだったのではないか。

それで、何晏たちは曹叡に排除された。

浮華の徒として。

 

 

実力行使の時代こそが、

この玄学清談の世の中を作る。

本質論だからだ。

 

そもそも、後漢を滅ぼしたのは董卓だった。

董卓の武力での実力行使が、後漢を滅ぼした。

 

それまで、いくら名族と宦官が争っても、

それは皇帝の存在を前提としたものだった。

 

しかし董卓は、皇帝を無力化した。

 

実力行使の時代、どう生き残るか、

どう自分の主張を突き通すか、それを

最初に形にしたのは曹操だった。

 

軍事に先例もなにもない。

そもそも、先例と全く同じの状況が内外にあるようなことは

皆無だ。

 

先例のエッセンスを学び、それを現況に応用する。

 

それができたのが曹操だった。

 

だからこそ、

孫子に注釈を入れられる。

 

孫子の言っていることはこういう意味だ。

この文章の捉え方は、こうである。

またほかの事例はこうだなど、エッセンスが分からなければ

付けられない。

孫子の意図を掴むために、曹操は論理的に孫子の言っていることを

理解しようとした。

 

それこそが、玄学清談の源流である。

それが魏を創った。

 

何晏も曹髦も、魏の太祖武帝曹操の意向を忠実に継いでいたのだ。