歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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249年正始政変から265年西晋成立までの五つの反乱

①251年王凌の乱→伝統的儒家名族の反乱。
②255年毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽の乱
→魏の武官の反乱。
③257年諸葛乱の乱
→余分。賈充が吹っ掛けた。
必要のないものだったからこそ、激戦。
④260年魏皇帝曹髦弑逆される。
⑤264年鍾会の乱→玄学清談派である鍾会の反乱。

名族・武官・皇帝・清談、
と当時の支配階級のすべてが反乱を起こしている。
見事に全て反乱を起こしている。
魏晋革命の実態は、非常に強い反発がある中で行われた。

しかし、それぞれの反乱は全て寛容に対処された。
すなわち当事者のみの処刑で、
そのほかは赦されている。

つまり、これら各層の不満は燻ぶったままであった。

西晋の宗族、司馬氏の中ですら、
燻ぶっている。

兄司馬懿に忠実であり続けた司馬孚も、
魏皇帝曹髦が賈充の指示で弑逆された際に、
曹髦の骸(むくろ)に駈けつけ、哭泣している。
司馬孚の息子で、司馬朗の養子だった司馬望は、
魏皇帝曹髦寄りの立場であった。
司馬師・司馬昭の異母弟司馬伷の正妻は、
諸葛誕の娘であった。

司馬懿が政権を奪取してから、
司馬炎の禅譲までの過程で、
河内司馬氏ですら、一枚岩ではなくなりつつある。

各支配階級の反発、
当時の思想の潮流の両軸からの反発、
全てが司馬氏に向けられてきた。

司馬氏は、それを弾圧しないで来た。

曹魏との差別化で、魏の苛烈な政治とは違う、
という司馬氏政権の主張だ。
寛容の政治を主とし、名族の支持のもと政権を維持しようとした。

それが結実して、西晋王朝の成立となる。
しかし、この燻ぶりは、西晋になっても続く。

この複雑な対立軸は、
西晋滅亡の原因となった。

玄学清談⇔儒家⇔法家
名族⇔武官(寒門)

三者全てからの反発は、西晋になってからもそのままだった。