歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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司馬望②:魏晋における名族の長は誰になるかに関する考え方

司馬望は、司馬八達の長男家を継いだ。

この立場は、河内司馬氏においてどのようなポジションになるのだろうか。


ところで、

この河内司馬氏は、養子縁組が兄弟間でとても多い一族だ。

何かポリシーのようなものがあったのか、それとも兄弟が仲がよかっただけなのか。

 

司馬朗は、曹操、

司馬懿は、曹操、その後曹丕、

司馬孚は、曹植、

とそれぞれの副官になっている。

曹家がうまく分配したのか、それとも司馬氏側の意図か、いずれにしても

うまく散らばっている。

 

司馬望は、この司馬八達の世代の子供としては、

二番目に当たる。

司馬師は208年生まれ、司馬昭は211年生まれである。

なので、司馬望が司馬朗の養子になった。

 

このあたりになると、若干ややこしくなるが、

司馬朗が長男だからと言ってこの司馬氏一門の頭領というわけではない。

 

司馬朗が死去した217年、

司馬八達の父司馬防は存命であった。

司馬防は生年149年、没年219年である。

 

一族の序列というのは、

父子一体、夫婦一体、兄弟一体(兄弟平等)である。

ここにプラスして、男系継承の原理と、年長者を敬うという概念が

加わって、氏族の頭領が決まる。

 

これは皇帝位の継承とは異なる。

我々は歴史から中国の古の事績を知るが、

それは皇帝中心の歴史だ。

歴史、特に中国史というのは、

皇帝を中心に記載してある正史から読み解いていくからここが

ややこしい。一族の頭領を決めるロジックと皇帝を継承するロジックは異なるのだ。

 

皇帝は、天命を受けた皇帝が天命を次に受ける皇帝を指名する。

それは、妾ではなく、夫と一体としての正妻の男子で、

そして長らくの長幼の序という概念を重んじて、年長者が

後継する。

しかし、天命という皇帝しかあずかり知らない案件なので、

それからずれる判断もありうる。

 

しかし、臣下である人たちの氏族の頭領、つまり族長は、父子一体、夫婦一体、兄弟一体、

男系継承、長幼の序で決まる。

 

ということで、

司馬朗は、司馬八達の長男だが、司馬朗が217年に死ぬまで、

父司馬防は存命だった(司馬防は生年149-没年219年)。

そのため司馬朗が

司馬氏の頭領になることはなかった。

父司馬防が亡くなれば、司馬朗が族長であったのだろう。

当時、司馬懿は曹丕付となっており、本来漢の直臣である司馬朗の方が

格は上である。

しかし、決まり事ではない。社会通念上そうなるだろうということだ。

 

なので、司馬孚が次男司馬望を司馬朗に対して養子に出したが、

それは、イコール河内司馬氏を継ぐことを前提としていないということだ。

ましてや、一度司馬朗の息子が継いで早死したので司馬望が司馬朗家を継いでいるので、

そうならない。

特に、

司馬望が司馬朗家を継ぐころに司馬懿は曹丕の遺詔を受けた一人である。

司馬懿は、この時既に司馬氏の頭領になっていた。

 

 

日本だと歴史上の嫡男相続の印象が強いので、勘違いしそうだが、

そうではない。

 

官職に就いていた司馬朗家は、

家など家財、奴隷など使用人がいるので、それを司馬望が相続する。

司馬朗らの祭祀を行うということである。

この程度の相続である。

 

とはいえ、まだ司馬望は二十代である。

当然、50歳近い実父司馬孚の指導を受けることになる。

しかしながら、家は司馬朗を継いでいる。

司馬孚は司馬八達なので、次兄司馬懿を立てる。

族長は司馬懿となる。

しかし、司馬懿が亡くなると、

司馬孚が族長ではあるのだろうが、

司馬懿が太傅という高位に昇ってしまったので、

司馬懿の家という概念が生まれる。

司馬懿を継ぐものは誰だ、ということで、

それは司馬師ということになる。

 

ここで族長の概念と分離する。

族長というより、長老は、司馬懿の一歳年下の司馬孚になる。

しかし、朝廷の高位であり、司馬懿を継いだ司馬師が、

一族を代表することになる。

 

族長の概念に、高位の官職というファクターが絡んでくる。

 

こうして、高位の官職者が入ることで、社会的通念の族長継承法から、

分離する。