歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

鍾会の思想〜才性四本論:人材とは、評価とは〜鍾会②


 【鍾会の思想 才性四本論 人材とは、評価とは】

鍾会は、著書の一つとして「才性四本論」を書いている。
これは、二つの意味で重要だ。
一つ目は、鍾会自身が志向したあり方。
二つ目は、魏末における人材およびその評価の判断軸がわかるという点。

これは魏晋南北朝時代全体の状況を明確にするものである。

今回は、一つ目にフォーカスして記述する。

●才性四本論
才=才能、性=人柄のことである。
これは何を意味するのかというと、
魏のような才能・実績主義で採用をするのが良いのか、
後漢のような親孝行で、清廉潔白な人柄の良い人を採用するのかを論じるものである。
 
Aを採用の基準・人材の評価とすると、
鍾会は結論として、
A=才+性
と言っている。「合」だとしている。
 
傅嘏は、
A=才=性
と言っている。
 
李豊
才≠性
A=才
A=性
だが才能は才能、人柄は人柄で同類項ではないということだ。
 
王広
才と性全くの別物
 
傅嘏は
本質を読む人間である。
また実直な人間である。
 
正始年間には、すでに名声を得ていた傅嘏
だったが、何晏らとは交流を持たなかった。
それどころか、何晏を用いないように、
曹爽の弟で、才能のあった曹羲に進言している。
おかげで、何晏の恨みを買い、
傅嘏は免官されている。
 
司馬懿死後の呉による東興の役では、
司馬師に対して、遠征に消極的な意見を具申している。
結果として魏は呉に敗北した。
これは、呉の諸葛恪が、孫権の死後に東興に砦を作ったことで
魏を挑発したことで起きたものだった。
傅嘏としては見過ごすべしといったところだったが、
遠征をしたことで、魏は敗北したのである。
これに続けて諸葛恪がさらに魏を攻撃の気配を見せる。
呉の都建業から見て、西北の寿春ではなく、真北の徐州青洲を攻める
という話があった。
傅嘏は諸葛恪の陽動作戦だと断じ、司馬師に進言している。
司馬師は
傅嘏の進言を入れ、諸葛格を撃退している。
 
次の毌丘倹の乱では、眼の手術をしたばかりの司馬師に、
司馬師自身の親征を進言している。
諸葛格の攻撃の時には、司馬師親征など進言しなかったが、
影響のおおきさを考えて、司馬師の親征を進言したと思われる。
 
このような
傅嘏の経歴から、
才と性は「同」の意味は、
才能があれば、
人柄も良い、
人柄が良ければ、
才能もあると言っているのだと思われる。
 
人柄が悪ければ、才能もないということである。
何晏は決して無能ではなく、
官僚として学者としても能力のある人であった。
しかし、素行が悪かった。
白粉を塗り、五石散なる向精神薬と思われるものを服用していた。
 
それは認めないということである。
 
つまり、郭嘉や陳平は認めないということになる。
郭嘉の重用に関して、曹操を諌めた陳羣と同じ立場である。
 
法家ではあるものの、儒家思想ともばらんすを取ろうとする立ち位置である。
才能・実力主義になりすぎない立場だ。
本来は、玄学清談派であるものの、輿論に配慮して、
儒家思想に立った行為を行った、司馬師・司馬昭の立場に近いと思われる。
 
一方、
鍾会は、才能と人柄は合わさるもの、
つまり合算して評価されるものと主張した。
 
 
才能があり、人柄がダメ、ならそれで評価する。
人柄がよく、才能がダメなら、それで評価する。
 
郭嘉・陳平を認めるということだ。
 
人柄だけで成果が上がればそれも評価される。
才能だけで成果が上がれば、それも評価される。
 
つまり成果が上がればいいのだというロジックだったのではないか。
 
鍾会の、母が死去した後の行動を考えるとそう考えずにはいられない。
とにかく、成果主義なのだ。
成果が上がれば良い。人も平気で騙す。
社会規範に則った行動を取らない。
 
才能ある鍾会は、自身の才能に溺れていた。
謙譲の美徳であったり、儒家的発想だったり、
才を誇りすぎないといった考えは紹介には感じられない。
母が死んだ後は、才を誇るエピソードばかりである。
独善的である。
母が存命の間は、母が鍾会の行動を律していたのだろう。
母のタガが外れた後は、なんともふてぶてしい本性を現したのである。
 
士会を意識して字をつけた紹介だからこそ、
士会のこのエピソードを思い出す。
 
士会の息子は士燮(ししょう)と言う。
士会が引退後、士燮の帰宅が遅かったので、
何かあったのかと尋ねると、秦からの客があったので、
接待をしていたと答えた。
その際のエピソードとして、秦の客が出した謎かけがあり、
誰も答えられなかったと言う。
しかし、士燮は私は三つもその謎かけと解きましたと
父の士会に誇らしく言った。
 
それを聞くと士会は激怒する。
「他の士大夫は、謎を解くことを目上の人に
譲ろうとして黙っていただけだ。
それをお前は無視して答えることで、
その人達を三度も侮辱したのだ。私がいなければ
この家はすぐに潰れるだろう」
と言って、士会は士燮を殴打した。
 
その後士燮は上軍の将(晋におけるNo.3)に昇格する。
鞍の戦いでは晋は斉を打ち破った。
 
士燮の帰参が遅かったので、
士会がその理由を問う。
士燮は、「今回の戦いは、正卿である郤子(郤克。士会の後任。郤缺の子。郤克は以前斉にその風貌を笑われ、その恨みからの戦いであった)が中心でした。
戦勝後に私が先に帰還すると、晋国内の注目が
私にあつまります。
そのため、郤子が帰還するのを待っていたのです。」
 
士会は「私達は災いを免れるだろう」といって
士燮の控えめな振る舞いを褒め称えた。
 
 
 
士燮はその死後范文子という諡号を贈られる。
士会は范武子である。
士燮は未熟だったが、
士会の武人で厳格な法の番人らしい鉄拳制裁で
身を立て直し、見事に父の期待に答えた。
 
しかし鍾会には殴ってくれる父がいなかったのだろう。
鍾会は才能はあったが、最後まで独善的であった。