歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

鍾会の生い立ち 鍾会③

 
【鍾会の出生】
【鍾会の父鍾繇】 
【鍾会の母とは】
【鍾会 母の影響 マザコン】
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 【鍾会の出生】
鍾会は、鍾繇の子である。
鍾会は生年225年ー没年264年、
父鍾繇が74歳の時の子供である。
(数えでは75歳)
 
鍾会の出生は曰く付きである。
 
鍾繇は晩年、おそらく魏朝が成立した後だが、
鍾会の母となる張氏を溺愛した。
それを嫉妬した
別の側室(正妻という話もある。こちらの方が正しいとおもわれる。
そうでないと、曹丕が口出しする理由が不明である。
妾をどうしようがこの時代誰かに言われる筋合いは全くない。)が、張氏を毒殺しようとした。
それが鍾繇に発覚して、その側室は離縁された。
これは鍾会の自伝であり、話半分で考えなくてはならない。
 
ただ、いずれにせよ、鍾繇が最晩年に
鍾会の母を溺愛した結果、鍾会が生まれたというのは
事実であるようだ。
 
この話には続きがある。
魏文帝曹丕が、鍾繇に対して、離縁した妻と復縁するようにと、
指示をしてきた。どうも、鍾繇が張氏を正妻にしたかったが、
曹丕が卞太后を憚り、許さなかったという流れのようだ。
 
曹丕は夏侯尚にも妾ではなく、曹真の妹の正妻を愛するようにといって、
最終的にその妾を殺害している。
それを嘆いた夏侯尚は程なく死んでしまった。
これも不思議なエピソードだが、
曹操の正妻卞太后の意向が働いていたのかもしれない。
 
いずれにせよ、
鍾繇はこの曹丕の指示に憤激する。
三国志 鍾会伝の魏氏春秋の注釈では、
鍾繇は憤激して、鴆毒で自殺しようとした。
しかし鴆毒が手に入らず、代わりに椒を食べて
口がきけなくなったとある。
 
細かい話だが、この「椒」は山椒として日本では
解釈されているが、どう考えても山椒では自殺はできない。
原文は「椒」のみである。
胡椒、山椒とかに使われる。
どうやら、当時は巴椒という毒があったらしい。
毒物なので、これで自殺しようとしたのだろうか。
 
魏朝成立時の太尉鍾繇が、ここまでして愛したのが、
鍾会の母であった。
 
【鍾会の父鍾繇】 
 
鍾繇は生年151年ー没年230年、数え年では
80歳でなくなっている。
曹操の8歳年上である。
 
潁川郡の出身。(潁川郡には許昌がある。)
楚漢戦争時の項羽側の将軍鍾離眛の子孫を称している。
潁川に移住した後、鍾離から一字省いて鍾氏となった。
この系譜の信憑性には疑問がある。
 
この潁川鍾氏は、清流派名士のひとつである。
この潁川は清流派が多い。
代表格李膺と潁川鍾氏は姻戚関係にあった。
 
鍾繇の曽祖父鍾皓は、同じ潁川の荀淑、陳寔と並び称されている。
荀淑は荀彧の祖父、陳寔は陳羣の祖父である。
なお、鍾繇を曹操に推挙するのは荀彧である。
このような経緯なので、元々鍾繇と荀彧は交流があったのだろう。
 
鍾繇は、孝廉として推挙され、
洛陽から長安遷都後も後漢に仕えていた。
 
この後後漢献帝は長安から逃げるが、
献帝の長安逃避行に鍾繇は貢献したとある。
どういった貢献をしたのかは定かではないので、
なんとも言えない。
いずれにしろこの後
曹操は鍾繇を長安に置いて、軍事と統治を任せた。
官職は司隷校尉・侍中・尚書僕射である。

・司隷校尉・・・
朝廷内の大臣の監察、および
洛陽・長安およびその周辺の郡(河南尹・河内郡・河東郡・弘農郡・京兆尹・
右扶風・左馮翊の7つ)を統括した。
・侍中・・・侍中府の官職。
皇帝の側にいて、皇帝の質問に答える、皇帝の側近。だいたい4名いる。
・尚書僕射・・・尚書省は皇帝への上奏を取り扱う。
長官は尚書令、副官が尚書僕射(しょうしょぼくや)である。
録尚書事は尚書令の上だが、非常設。

 
曹操は中原の統治、また袁紹への備えもあり、
荒廃した長安・関中は鍾繇に委任した。
 
鍾繇は、西北の馬騰・韓遂を服従させることに成功している。
 
また、関中をよく治め、曹操に物資を都度補給している。
劉邦にとっての、蕭何のような役割を果たしている。
 
当時兗州、すなわち泰山周辺を根拠地としていた曹操にとって、
関中ははるか西の端であった。
洛陽から西は、地理的にも分断をされ、
孤立無援のエリアであった関中を、鍾繇は守りきった。
202年に平陽で匈奴の単于呼廚泉が袁尚が組んで反乱を起こしたときは、
鍾繇自身が討伐に向かっている。
馬騰の支援もあり鎮圧に成功している。
 
曹操から信頼され、蕭何になぞらえられる鍾繇。
 
その鍾繇の最晩年の子が鍾会である。
 
 
 
名族潁川鍾氏の末子鍾会。
潁川鐘氏は、より力の強い
同郷の潁川荀氏の姻戚でもある。
 
父の鍾繇は陳羣よりのスタンスであった。
つまり法家である。
鍾会は鍾繇が75歳の時の子である。
鍾繇は晩年膝が不自由になってからは、
宮中に輿に乗って着座することを許されている。
 
 
鍾会が5歳のときに、父鍾繇は80歳で亡くなった。
後継は鍾会の兄鍾毓(しょういく)である。
当然鍾会の母張氏の子ではない。
鍾毓は生年は不明だが、263年に亡くなっている。
鍾会の乱は264年の正月なので、
その直前に亡くなっている。
 
鍾毓は太和年間(227年ー233年)には官職についている。
20歳には官職についているはずなので、
司馬師(208年生まれ)・司馬昭(211年生まれ)と同世代だったのではないかと思われる。
鍾会とはそこまで年が離れているわけではなく、
離れていても15歳程度のようだ。
 
【鍾会の母とは】
 
鍾会の母は、張昌蒲と言う。
この時代、普通は女性の名前は残らない。
鍾会の母の名前がわかるのは、
鍾会が母の伝記「鍾会母伝」を書いているからである。
母の伝記を書き後世に伝える、
この時点で既に鍾会が非常に独特な人間だったことがわかる。
 
この鍾会の母張昌蒲は鍾会が4歳の頃から英才教育を施し始める。
 
 
4歳で孝経を学び、
その後はそれぞれ
7歳で論語、
8歳で詩経、
10歳で尚書、
11歳で易経、
12歳で春秋左氏伝と国語、
13歳で周礼と礼記、
を諳んじることができたという。
 
15歳で太学で学び始めた。
 
244年、19歳で官職につく。
 
礼記では、
「男子は20歳で冠を着け字を持つ」という。
だから19歳で官職につくと、
同僚から名を呼ばれるというのは礼に反する。
名は主君か身内の目上の人からの呼称だからだ。 
 
 
 【鍾会 母の影響 マザコン】
●ところで、
母の張昌蒲は賢夫人であった。
 
張昌蒲は、鍾会に対して英才教育を施す。
孟母顔負けの英才教育である。
鍾会もその期待に応える。
 
鍾会はその母に関する記述、
鍾会母伝を書いている。それで母の姓名が明確にわかる。
 
鍾会自身が
文章が得意だったということもあるだろう。
しかし、
どれだけ割り引いて見ても、
ここまで来るとやりすぎだ。
 
鍾会はマザコンである。
 
張昌蒲自身は、とても
賢かった。
 
正始政変では、
曹爽の滅亡は予想ができた、司馬懿に従うべしと言っている。
(三国志鍾会伝・裴松之註)
 
鍾繇の後を継いだ鍾毓とも交流があり、
鍾氏一門として、張昌蒲を尊重していたことがわかる。
 
鍾繇亡き後の鍾氏一門を指導していたのかもしれない。
張昌蒲に関連して、毒殺騒ぎまであったのに、
張昌蒲のこの扱いを考えると、
この毒殺未遂事件に関して、
張昌蒲には非がなかったのだろう。
 
そんな張昌蒲の唯一の実子である鍾会。
鍾会は事ある毎に母張昌蒲の指導を受けていた。
 
張昌蒲は257年2月に死去する。
鍾会32歳のときである。
 
ここから鍾会は変わる。
人が変わるのだ。
 
その理由に母張昌蒲の存在を考えずには
いられない。
 
鍾会は確かに有能であった。
母の死後鍾会は自身の才知に溺れる。