歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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鍾会の本心〜母の死後に馬脚を現す鍾会〜鍾会④

鍾会の、母の存命中の事績は少ない。
しかし、母の死後の鍾会の成果は全て狡猾で、
なんともアクの強いエピソードばかりである。

四書五経を修め、それに則って行動したとはとても思われない。
春秋晋の士会のような、真っ直ぐさもない。 

孟母顔負けの鍾会の母・張昌蒲の教えの反動ではないか。
 
●255年毌丘倹の乱 従軍→司馬師の急死。
曹髦の詔では、その後司馬昭を許昌に出鎮させ、軍権を外そうとするものだった。
傅嘏と鍾会は共謀し、洛陽の南まで進駐した。
それにより、司馬昭は司馬師の大将軍位を授けてもらうことができた。
つまり司馬昭の後継の功労者なのである。
 
●257年2月母の死●ーーーーーーーーーーーーーーー
 
●257年諸葛誕の乱 従軍
→諸葛誕の救援のために、全懌が寿春城内に入っていた。
全懌は、父が全琮。生母は全公主。全公主は、孫魯班とも呼ぶ。
孫権の娘である。全懌は呉皇帝孫権の孫である。
 
その全氏のある一族が、全氏内での争いが原因で、
魏に亡命した。257年11月のことである。
鍾会はこれを利用して、
全懌に、呉国内で全懌ら、諸葛誕の援軍の将の一族を処刑しようとしていると、偽の情報を流す。
257年12月には、
全懌が魏軍に投降。
この孫権の外孫を投降させることで、諸葛誕勢陥落の端緒を作った。
激戦の諸葛誕の乱を終結させるきっかけを作る。
司馬昭には賞賛され、世間には張子房(前漢の張良のこと)のようだと
いわれる。
だが、実態は偽の情報で全懌を寝返らせており、
決して褒められたものではない。
しかし、司馬師急死後の時と合わせて、
鍾会は司馬昭の信頼を勝ち得た。
 
 
 
●260年曹髦弑逆される。
この際には鍾会は登場せず。
曹髦のお召しにより、論壇していた四人の一人に挙げられていたにも関わらずだ。
他の三名と同様逃げたのかもしれない。
もしくは、母の張昌蒲の生前の話なのかもしれない。
 
●262年もしくは263年竹林七賢の一人、嵆康(曹操の曽孫が正妻)を、個人的な怨恨から讒言。司馬昭に処刑させる。
鍾会はどうやら、嵆康を恨んでいたようだ。
どういう事情かはわからない。
接点があるのは、
才性四本論を読んでもらおうと、嵆康を訪ねた。
鍾会は自信がなかったからなのか、会って才性四本論を渡すのではなく、嵆康の自邸に、才性四本論を投げ入れて帰ってしまった。
また、別の時に鍾会は嵆康を訪ねたが、嵆康は
刀鍛冶に集中していた。
鍾会は嵆康に声をかけてもらうのを待っていたが、
声をかけてもらえなかったので、帰ろうとした。
その時に、嵆康が
「何を聞きに来た。何を見て帰るのか」
と言ったところ、
「聞きたいことがあったので来た。見たかったことを見たので帰るのだ」
何か、鍾会のナイーブさすら感じるエピソードだ。
 
 
●263年蜀討伐 許褚の子許儀を些細なミスで処刑
司馬師以降寛容の政治を司馬氏は行っていた。
特に建国の元勲をはじめとした朝臣はかなり甘く対処されていた。
そうしたなかの鍾会の許儀に対する厳正すぎる処置。
 
理由はこうである。
鍾会が蜀を攻める際、許儀に橋の架橋を命じていた。
鍾会が橋を渡ろうとすると、鍾会の乗っていた馬が脚を取られてしまったため、
バランスを崩し、鍾会は落馬した。
これを橋の不備だと鍾会は断じ、架橋担当の許儀を軍法で処刑したのである。
もちろん、諸将は許儀が功臣許褚の子であることを理由に止めたが、
鍾会は受け入れず、許儀を処刑した。

●263年に鄧艾が成都を陥落させ、
劉禅を降伏させる。
鄧艾にも非はあったが、鍾会は 
鄧艾を陥れる。
鍾会は人の筆跡を真似るのが得意であったが、
鄧艾の筆跡を真似て偽書を作り、
鄧艾を逮捕させる。
 
●264年蜀で姜維と組んで自立。 
 早々に魏軍の反乱が起き、自滅する。
 

才能重視、成果重視の鍾会は、
手段を選ばずに成果を挙げることを志向していた。