歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

「蜀」「蜀漢」ではない、「漢」である。

三国志において、
劉備が創業した国は、一般的に「蜀」と呼ばれる。

しかし、劉備たちは、自国のことを
「漢」と呼んでいた。
または、末っ子の漢ということで、「季漢」とも呼んでいる。

241年に蜀(蜀漢、漢)の楊戯が著した
「季漢輔臣賛」という本もある。
季漢と自称している一つの証拠である。

蜀ではなく、漢なのだ。
蜀漢でもない。

大体皇帝は不倶戴天であり、
地上にただ一人の存在である。
この地上に国境はない。全て皇帝が治める地上なのだ。

清の康熙帝が、1689年にネルチンスク条約を
帝政ロシアと結んで国境線を確定するまで、
国境という概念がなかった。
また他の国家を認めることもなかった。

そうした皇帝という概念からして、
蜀漢という言い方自体がおかしい。
蜀という一地方に限定する言い方自体が、
見下した言い方、つまり皇帝と称しているのに皇帝として
認めていないのに等しい。

彼らの立場に立って言うならば、
「漢」と呼ぶ必要がある。


この劉備の建てた漢という国の視点で、
三国時代の概略を見てみたいと思う。

劉備は前漢景帝の子孫である。
この時代の、劉焉や劉表も景帝の子孫であると
称していることは注目に値する。

つまり、前漢武帝の兄弟の子孫ということだ。
武帝、中華の正統とされた武帝の世とは、
もう一つの異なった劉氏ということを意味する。

前漢とは異なるということだ。

後漢もそうだ。
後漢の創業者は、光武帝で、武帝を継ぐとしている。
諡号にその遺志は現れている。
だが、分家であることも忘れていない。
後漢は前漢皇帝の子孫を重要視していなかった。


なので、実は
決して劉備たちは、後漢を支えるという立場に立っているわけではない。

同じ劉氏ではありながらも、
前漢武帝から後漢光武帝の王朝とは、
ちょっと異なった立場に立っている。

劉焉や劉表はそれぞれ、益州牧、荊州牧となっているが、
事実上の王として君臨していたという説もある。

いずれにせよ、劉備が確固たる領土を持ったのは、
208年に曹操が赤壁の戦いで周瑜に負けた後だ。

荊州の長江以南を自領とした。
孫権をうまく出し抜いて、自立した。

劉備の立ち位置は、前漢景帝の子孫として、
皇帝劉氏の一族である。
後漢皇帝献帝を支える立場だが、
曹操がのさばり、後漢皇帝から実権を奪っている。
奸臣曹操を打ち倒すために、
朝廷外で反曹操活動をしているというスタンスだ。

荊州以南も、事実上の劉備の領土だが、
後漢皇帝の領土である。
しかし曹操が実権を奪っているので、
劉備が代理として治めているということになる。

その後、劉備は、211年に蜀の劉璋(劉焉の子である)の要請により、
蜀に軍勢を率いて入る。
漢中の張魯との対抗上援軍を出して欲しいという劉璋の要請に乗った。

足掛け三年をかけて、
劉備は蜀を獲得した。
劉璋との戦いは、漢の中での内戦扱いだ。
蜀にいる士大夫、民衆の要望に則っているという立ち位置だ。

219年には漢中を曹操から獲得する。
ここは、前漢高祖劉邦が漢王となった地である。
それに習い、また諸大臣の要請に応える形で、
漢中王となる。
漢皇帝から任命されているわけではない。
僭称であるので、反対者もいた。

この反対者の
理由は、大きく三点ある。
漢を、漢皇帝を支えるという大義名分が崩れる、
そもそも僭称である、
前漢後漢の漢朝400年の歴史で、漢皇帝以外に皇帝はあり得ない、
以上3点である。

そもそも、劉備がこれをしてしまうと曹操と同じではないかという
考え方もかなりあった。

一方で、すでに魏王となっていた曹操(216年に魏王となっている)に対抗する意味合いもあった。

漢皇帝の意向はここにはない。
漢皇帝は基本的に実権を取り戻したいという、
不変の原理がある。
それを実現するなら何をしてもよい、という前提だ。

漢皇帝は曹操のために意思の発露ができない。
劉備を漢中王にさせたいに決まっているという考え方である。
全くずれているとは思わないが、少々強引である。

220年の正月曹操が死去する。
曹丕が後を継ぐ。曹丕は220年10月に献帝から禅譲を受け、
皇帝に即く。

これに対して、劉備は曹丕は嘘を言っている、
そもそも本当に曹丕は皇帝になったのか、
曹丕の皇帝即位は僭称だ、と主張する。
漢皇帝が禅譲などするはずがないという立場である。

しかし、どうやら曹丕が皇帝になったのは間違いない、
ということがわかる。

そうなると、劉備は後漢皇帝が弑逆されたと考える。
漢皇帝が殺され、それで曹丕が強引に皇帝位を継いだと。

なので、劉備はこの漢皇帝に諡号を贈る。
この漢皇帝を「孝愍皇帝」とする。

「孝」は、孝行の意味で、漢の皇帝には全員はじめに付いている。
「愍」は、諡法解によると、「国に在りて難に逢うを愍という」
とされている。

劉備はこの最後の漢皇帝、後漢献帝を哀れんでいる。

これを受けて、蜀の群臣が劉備に皇帝位に即くように上奏、
それを受けて、劉備は皇帝を称した。
当然反対者もいた。

曹丕により、後漢は滅ぼされたが、
それを継ぐので、漢と称する。

劉備はここに漢を復興した。

現実的には、漢皇帝の権威で成り立ってきたこの劉備政権は、
漢皇帝に代わる権威が必要不可欠であった。
漢を受け継ぐとするか、漢王のまま活動するか。

光武帝は、瑞兆を元に皇帝に即位している。
後の事だが、孫権は、曹丕に呉王にしてもらって、
229年に皇帝になっている。

結果として、大きく変わらないようだが、
劉備の皇帝即位に反対者がいたという、思想対立があったことは
ポイントだ。

まだ皇帝位への即位の仕方は、パターンが複数ある。

禅譲か、
群臣推戴による自称か、
自称の理由は様々である。

ということで、
劉備は漢皇帝になった。

劉備という属人的なものよりも、
漢皇帝がいるということの方が大事である。

漢皇帝は、許昌にいた。
事実上、曹操により囚われの身だった。
曹操が死んで、曹丕が後を継いだ。
曹丕は漢皇帝を殺して、曹丕自身が皇帝になった。

皇帝は漢の一族である劉氏のみがなれるものだ。
そういう考えも当時にはあった。
当然秦の始皇帝が初めて皇帝となったが、
現代でも大して資料がない中、秦帝国の存在が
世間にどれほど認知されていたかわからない。

それを飛び越して、高祖劉邦こそが皇帝の始まりだと考えるのも
不思議ではない。これは事実ではなく、考え方の問題である。

曹丕が皇帝になるのは僭称である。

蜀の我々が漢皇帝を支えるために、
蜀という僻地で頑張ってきた。
漢皇帝の遺志を継ごう、劉備を皇帝に推戴しようと。

ということで、
漢皇帝は蜀の成都にいることになった。
臨時に仮住まいとして成都にいることになる。

そこで蜀にいる漢皇帝がすぐに行ったのは、
呉の孫権討伐であった。

漢国内において強い反対を受ける。
そもそもこの流れで言うと、曹丕の成敗を優先すべきなのに、
孫権を討伐すると言う。

確かに、孫権は魏と組み、劉備を裏切って、
荊州を奪い取った。
劉備の義兄弟関羽を敗死させた。

しかし大義名分論からすれば順番が違うと言うことだ。

強い反対があったにも関わらず、
漢皇帝は呉への親征を実行する。

劉備とするところを、全て漢皇帝と言い換えると、
この夷陵の戦いがちぐはぐなことがよくわかる。

漢皇帝は夷陵の戦いにおいて、
大敗し、その後白帝城において崩御する。

後継は劉禅。
丞相の諸葛亮を白帝城に成都から白帝城に呼び、
後事を託す。
ここで、漢皇帝は、後継者が補佐するに値しなければ、
諸葛亮が取って代われという話がされる。

この話も諸葛亮が取って代われまでは言っていないとか、
諸説・諸解釈ある。

話自体なかったのかもしれないが、
劉備が漢皇帝になった背景を考えれば、
諸葛亮が皇帝になるのはそもそも無理な話だ。

ここでも一介の無頼漢から成り上がった劉備の天衣無縫さが
滲み出る。

諸葛亮は、劉備が夷陵の戦いを起こすときに、
劉備を諌めていない。

結構ドライなのだ。
水魚の交わりという割にはウェットでは全くない。

諸葛亮は、
漢皇帝を支えるというところに自身の生きがいを見出していた
人だと私は考える。
それが、自身を管仲・楽毅に比すということにつながったのだ。
両者との輔弼の名臣である。
楽毅に至っては、燕を亡国寸前まで追い込んだ斉を、今度は逆に亡国寸前まで追い込んでいる。

諸葛亮は、
漢の丞相として、先の愍帝を弑逆した、曹丕・曹叡を討伐することに
目標を切り替える。

呉との関係を修復する。
こちらは漢皇帝の立場なので、
呉王孫権は、漢皇帝の支配下ということになる。
229年に孫権が皇帝になるまではそうした構図になる。

虚構だがそういう構図になる。

魏からすれば、
漢を僭称する偽皇帝が蜀の成都にいる。
魏に従わない、呉の賊が建業に跋扈している。

漢からすれば、
先の漢皇帝を弑逆し、皇帝を僭称している、
偽皇帝が、洛陽にいる。
中原と関中を盗み取っている。

という図式である。