歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

漢の諸葛丞相が攻めてきた、その思想的意義

漢の諸葛丞相は、
魏賊を討伐するために北伐を敢行する。

劉備が漢皇帝位を継いだ経緯から、
これは至上命題である。

漢中から魏を攻撃するわけだが、
秦嶺山脈を超えた先には、
関中平野がある。
長安は前漢の都であった。

民衆にとっては
つい数年前まで、漢という国があるのが当たり前だった。

それが魏に取って代わった。
古代の禅譲というのに倣っているようだが、
よくわからないというのが本音だろう。

秦嶺山脈の南には、劉備が漢を受け継いでいるという。

こちらの方が当時の民衆にはわかりやすかったであろう。

第一次北伐の際に、魏延が子午道で長安を奇襲すれば、
漢を慕うものたちが呼応してくれる、という理屈もあながち的はずれではないのだ。

そうした意味では曹丕が行った禅譲をさせるという行為は、
時代への挑戦であった。曹丕は前衛的であった。

漢の丞相が攻めてくる。
長安周辺には前漢時代からいる人間も相当に減っていただろうが、
漢に親近感が湧く人もいたはずだ。

漢の諸葛丞相率いる漢軍は、五度関中を攻めたが、
曹叡・曹真・司馬懿の的確な防戦により、
関中を攻略することはできなかった。

漢の諸葛丞相は五度目の北伐中、
五丈原にて道半ばで陣没する。

その後は打ち手がなく逼塞した。

たまに呉の孫権に連動して、
魏を攻撃するも、大勢に影響はなかった。

漢の実際の支配領域は蜀と漢中に限られていた。
天嶮と肥沃な土壌に恵まれた土地で、
特に不便ではなかった。
統治も行き届いており、戦争も少なかったので、
民力はすこぶる回復した。

しかし、先進地域、中原と関中を支配していた
魏とは回復力の掛け算が違う。
中原と関中では、
城の数が違う。インフラ整備の程度が違う。
民度も違う。

黄巾の乱に始まる後漢末期の争乱は、主に
中原と関中が舞台で、壊滅的な被害を受けた。
だが、被害の程度も大きいが、
元々の民力も高い。

潜在力が高いので、
回復すれば蜀地域を優に凌駕してしまう。
後漢末期の争乱に蜀地域は遭わなかった。
蜀地域は温存されていた。だからこそ中原・関中に対抗できた。

国力が回復すれば、魏の国力は蜀を大幅に上回る。

魏の国力の伸びしろは大きいが、
蜀地域しか統治できていない漢は、
相対的に国力に伸び悩む。

何もしなければジリ貧に陥る。

漢の姜維はそれを憂いて、
積極的に軍事行動に出ることを主張したが、
当時の最高執権者費禕は許可しなかった。

費禕は、蜀地域の出身で、
この漢という国が事実上の地方政権という側面を代表している。
(生まれは荊州だが、劉備の前の蜀領主劉璋の姻戚のため)
漢という国として、魏を討伐しなくてはならないという意識は幾分か弱かった。

その前任者の諸葛亮は徐州の出身、蒋琬は荊州出身であった。

費禕が253年に魏から降伏した武将に殺されると、
姜維は軍事行動を始める。

成果はうまくあがらず、
260年過ぎの司馬昭がこの漢を討伐しようかと検討する時期に至る。

この蜀地域だけを統治する、漢始める、
魏にとって厄介な存在だ。

漢魏革命を認めない、魏に天命は下りておらず、
皇帝は僭称だ。

特に伝統的な儒家思想が復活しつつあるのが、
魏末期において、余計に漢の存在がチラチラ気になる。

現在、魏の皇帝は事実上傀儡である。
この蜀にある漢の討伐を実行するのは
司馬昭である。

司馬昭がこれを成功させれば、
偽の漢を滅ぼしたことになる。

魏の正統性を確立することになるが、
それを行ったのは司馬昭である。

となれば司馬昭に天命が下りるのは当然という風潮が高まる。

漢魏革命が偽だったとすれば、
魏の皇帝は不完全であり、僭称であった。
やはり漢を討滅したが司馬昭に天命があるということになる。

二重のロジックで、蜀にある漢の討伐は重要になる。

司馬昭としては、何としても成功させたい蜀漢討伐となった。