歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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劉備が前漢景帝の子孫であるという意味

前漢景帝には十四人の男子がいた。

劉備は、景帝の男子の一人である、
中山靖王劉勝の子孫と称している。
劉勝は、九男である。母は賈夫人。


景帝の崩御後、後を継いだのは、
十男の武帝劉徹である。母は王皇后。

漢を復興させた、後漢光武帝は、
七男長沙定王劉発の子孫である。
劉発の子に劉買という者がいて、
その者を舂陵侯(しょうりょうこう)に封じた。

この末裔が光武帝である。
なお、長沙は当時貧しい土地で、さらに輪をかけて
この長沙近辺の零陵郡にあった舂陵は貧しく、土地に毒があるという
理由で、場所を移転した。どうも湿気がすごいということらしい。
蔡陽郡の白水というところが移転先で、
名前はそのまま舂陵侯とした。

三国志の中で、
それぞれ益州牧、荊州牧として出てくる、
劉焉・劉璋と劉表も、実は前漢景帝の子孫である。
景帝の四男魯恭王劉余の子孫である。

中国の場合、
長幼の序に則って、
後継を決めるわけではない。

母が正妻であれば兄弟は実は同権である。

武帝の母は王皇后だが、
正妻だったかというとそれは間違いである。

景帝には本来の正妻、皇帝の正妻なので皇后がいた。

薄氏である。
薄氏は、景帝の父文帝の生母薄太后の一族である。
景帝にとっては、祖母の一族である。

薄太后は、景帝が即位した前157年の翌年前156年に亡くなっている。
それまでは影響力があったため、皇后に冊立されたのであろう。

しかし、子ができなかった。

そのため、長男の劉栄を皇太子にした。
前153年のことである。
母は栗姫である。

栗姫は、景帝の同母姉館陶公主と反りが合わなかった。
公主は、王夫人が産んだ劉徹を皇太子にと薦めた。

劉徹は生年前156年であり、まだ3才である。
劉徹云々ではなく、生母の王夫人が館陶公主のことを、
きちんと敬って応対したからであろう。

結局、劉栄は前150年に皇太子を廃される。
その三年後には、宗廟を立てる土地に宮殿を建てたという
罪で都に召喚され、自死する。

これはよくある話で、
前皇太子の劉栄を、劉徹サイドの誰かが始末をしようとした者であった。
皇帝景帝の意向だったかもしれない。

この劉徹の皇太子冊立の際には、
丞相の周亜夫が真っ向から反対した。
周亜夫はこれにより、丞相を罷免される。
周亜夫は、前漢建国の功臣で、呂后一族討滅に功績のあった
周勃の次男である。

周亜夫は、最終的に殺された。
周亜夫の子が、周亜夫の将来の埋葬に備えて、
揃えた副葬品が皇帝のものと同様であったということで、
不敬罪に問われる。責任を取る形で、
周亜夫は絶食をして死ぬ。

このようにして、
実は武帝劉徹の皇太子冊立は、非常に疑義のあるものであった。

本来の皇后である、薄氏が子を産めない以上、
他の誰が皇太子になってもおかしくはない状況だった。

廃された劉栄の母栗姫は他にも子がいて、
景帝の男子としては、
長男、次男、三男が、栗姫の子である。

これらは、栗姫にも、責められる部分があるとして
除くと、
次は、
四男魯恭王劉余となる。

王夫人が産んだ劉徹が皇太子になるという正当性は、
景帝の同母姉館陶公主が薦めているぐらいしかないのである。

劉栄が冤罪により事実上殺されたことを、
景帝と館陶公主の母竇太后は激怒している。
孫を殺されたのを怒っているのだ。

劉栄を取り調べたものを殺害させている。

身内含めて非常に疑義のあった武帝劉徹の皇太子冊立。
しかし、武帝は即位後、四夷を治め、
封禅を行い、史記により、正統な皇帝となってしまった。

武帝こそが皇帝の理想。

それを継ぐ者としては、
武帝の兄弟が祖でなければならない。

それで、
光武帝劉秀・劉備・劉焉・劉表は、景帝の子を祖先なのである。

劉氏が全て、彼らのような正統性を持っているわけではない。

武帝を継げるのは、
武帝の兄弟を祖とする末裔でなければならなかった。