歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

何故鍾会が征蜀の総大将か。 鍾会⑥

司馬昭は、
司馬氏生き残りのため、
なんとしてでも蜀漢を討滅させなくてはならなかった。

鍾会は、
自身の才能を認めさせ、成り上がるために、
蜀漢の攻略が必要であった。

蜀漢の討伐に賛成しているのは、
司馬昭と鍾会のみだった。

司馬昭は、鍾会には任せることを決めると、
都督雍涼州諸軍事を従兄の司馬望から
鍾会には後退させている。

司馬望は、司馬孚の次男であり、
司馬懿の長兄司馬朗の家を継いでいた。
司馬昭より6歳年上に当たる。

257年の諸葛誕の乱の前から、
都督雍涼州諸軍事を務めていた。
諸葛誕の乱に連動した、姜維の関中攻撃など、
手堅く撃退している。

父司馬孚、叔父司馬懿に似て、優秀な軍司令官と言えよう。

それを替えた。つまり司馬望も蜀漢の征伐に反対なのである。

軍事的観点でも反対。また、
蜀漢という漢を名乗る王朝を壊したくはないと言う、
漢人としての感覚もあったかもしれない。


ここで問題なのは、
そもそも鍾会は、蜀で独立する計画をもっていたのかということだ。
もしくは衝動的に起こしたのか、
それとも、現地を見て独立できると考えたのか。

私は鍾会はそもそも蜀を持って自立することを考えていたと主張する。

私は司馬昭も鍾会も、蜀漢を討滅させることの意味を理解していたと考える。

蜀漢を討滅させると、魏は正統性を増す。
今が不完全だとも言える。

しかし今の魏の皇帝は傀儡なので、
実際に行った人の正統性が増すわけだが。
それで司馬昭は蜀漢討伐を企図するわけだ。

しかしこれは鍾会にも当てはまる。
司馬昭ではなく、鍾会が行ったとも言えるのだ。

周の武王は、殷の紂王を自身で放伐している。
漢の高祖劉邦も、項羽との最後の戦い、垓下の戦いは自身も参加している。

なのに、この重要な偽漢の討伐に司馬昭は参加しない。

これでは、蜀漢討伐が成功した暁には、
鍾会に天命が下ったとも考えられる。少なくとも、
鍾会に天命ありと主張はできる。

このあたりの皇帝論・天命論は難しくややこしい。

司馬昭がこれを理解していなかったのか、
それとも人が良くて鍾会に騙されたのか。

なぜ司馬昭が蜀漢討伐を自身で指揮しなかったのかは
少々解せない。

洛陽を空けるのを嫌がったか、
それとも蜀漢討伐の成否が見えなかったから鍾会に任せたのか。

前王朝とみなすこともできる、
蜀漢を司馬昭が自ら兵を率いないことは問題がある。

確かに呉の討伐は司馬炎ではなく、
賈充が総司令官だ。
しかし、これは司馬昭の前例があるからできることである。

司馬昭が蜀漢を遠征しない、これは前例のないことであった。

理由は二つあると考える。

一つは、一か八かの決戦をするわけではなかった。
周の武王や漢の高祖劉邦のように一大決戦をしなくてはいけない状況ではない。乾坤一擲の大勝負に出るのとはわけが違う。

もう一つは、この戦いの成否が読めなかったからだと主張する。
成否が読めなかった。確実でないと、司馬昭は出れない。
一発勝負の賭けに出る必要はない。
しかし蜀を制圧しないと禅譲への道が開けない。

本来は呉の方が隙があるのだ。
重臣は反目しあう。
そもそも、呉は重臣たちに兵が所属している。
重臣が反目しあうというのは、国が反目しあっているのと同じだ。
それをまとめていた孫権は既に世を去っている。
その後の呉の皇帝は重臣をまとめきれない。
制圧できるはずなのに、その前を長江が妨げる。

水軍がないのだ。
長江を渡る、着実に押さえる術がまだない。

また、揚州三度の反乱により、呉の最前線揚州が不安定なのも気にかかる。

それに対して蜀は
人臣はよくまとまっている。
呉の長江の代わりに、
天嶮の山脈がある。

籠って仕舞えば、突き崩すのはとても難しい。

ただし、呉の半分の国力である。
呉は、揚州・荊州の二州を治めるが、
蜀は益州のみ。

また253年の費禕の横死以来、姜維が頻繁に兵を出していることで、
蜀は疲弊している。

陸続きなので、
攻撃をすることは問題ない。

こうして、呉と蜀を相対的に比較した時に、
蜀討伐に賭けたのだと思われる。

とは言え、一発勝負の賭けに出るところまで切羽詰まっておらず、
成否も不明の作戦なので、
鍾会に任せた。

その代わり、鄧艾・胡烈を始め、
司馬懿以来の司馬氏与党が諸将を固めた。

漢中ぐらいまで取れればいい、そのぐらいの考えだったのではないか。


※2017年3月22日追記:
もう一つ司馬昭が親征しなかった理由を追加したい。

親征しようと思っていたが、蜀漢滅亡までに間に合わなかったという理由だ。
司馬昭は、のんびりしていた。
しかし思いの外早く蜀漢が降伏したというわけだ。

なんとも不恰好だが、蜀漢は3ヶ月で滅びている。
これは快挙である。十分に考えられる事案である。