歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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姜維の北伐は6回。

253年 南安攻撃

2546

255年春 狄道の戦い(狄道城から出撃してきた王経を撃破。狄道城を包囲。陳泰・鄧艾の救援で落とせず。)

256年 段谷の戦い

257年 駱谷道から進撃

262年 候和の戦い

の計6回である。

 

姜維は生年202-没年264年である。

司馬師は生年208年、司馬昭は生年211年で、少し年上に当たる。

鍾会は生年225-没年264年、

鄧艾は生年不詳-没年264年である。

 

 

●253年の正月

費禕が殺される。

宴席において、魏の降将郭循(郭脩)より殺された。

 

姜維が魏の涼州西平を攻撃した時に、

漢に降伏してきた武将である。

 

ここから、姜維の北伐が始まる。

 

 

①●253年 北伐

呉は252年に東興の戦いで、

魏に勝利していた。

 

こちらは、対魏慎重派の皇帝孫権が崩御したことで、

諸葛格が魏を挑発、それに乗る形で、

司馬師が軍を派遣してきた。

 

司馬氏の姻戚で都督揚州諸軍事の諸葛誕をメインに

都督荊州諸軍事の毌丘倹(かんきゅうけん)・

都督豫州諸軍事の王昶(おうちょう。太原王氏)

にそれぞれ、

諸葛誕→東興

毌丘倹→武昌

王昶→南郡(江陵)を

攻撃させた。

 

東興に諸葛格は昔あった堤防を活用して

要塞を作っていた。

巣湖の東南に位置する。

巣湖の西北が合肥新城であり、魏の対呉戦線の前線基地である。

 

 

 

司馬師は251年8月に死去、司馬師は実権を継いだ後、

初めての戦役であった。

 

 

魏の司馬懿251年8月にに死去。

呉の孫権252年5月に崩御。

蜀漢の費禕253年正月に殺害される。

 

三国の最高権力者がそれぞれ立て続けに亡くなっている。

これにより、各国のバランスが崩れ、

緊張関係に入る。

 

252年12月の対魏勝利の勢いに乗って、

諸葛格は253年4月にさらに魏を攻撃、

合肥新城を包囲する。

 

魏の司馬師は、叔父の司馬孚を総大将として救援、

諸葛格は合肥新城を落とせないまま、

軍内に疫病が流行し、撤退を余儀なくされる。

 

 

姜維はこの諸葛格の動きに呼応して、

北伐を行なっている。

253年3月、諸葛格の合肥新城包囲の1ヶ月前に、

隴左(隴西)の南安を攻撃。

漢領の武都郡から隴左に進撃した。諸葛格からの使者があり、

対魏共同戦線を張ろうという要請であった。

 

当時の都督雍涼州諸軍事は、

郭淮である。

しかし、郭淮の妻は、

251年に反乱未遂で誅殺された王凌の妹であったため、

この253年の姜維北伐に対応はさせてもらえなかったようだ。

 

代わりに雍州刺史の陳泰(陳羣の子)が南安救援に向かっている。

姜維は背後を陳泰に取られそうになると、徹底した。

 

費禕の死の直後ということもあり、準備が不足していた。

 

姜維は同盟国呉への義理程度の出兵であった。

 

②●254年6月 姜維の北伐

隴西(隴左)の狄道を攻撃。

狄道は、南安よりもさらに西に当たる。

狄道を攻めた理由は、狄道に内通者がいたためだ。

 

郭淮が病に臥せっていて動けず、

代わりに司馬昭が許昌から来て、長安に後詰めとして入る。

 

姜維は、陳泰のそつない対応により、

狄道は落とせなかったものの、

洮西を陥落させる。

隴左に領地を得た。

実に諸葛亮の第三次北伐をで武都郡を得た以来の快挙であった。

第三次北伐は229年であり、25年ぶりの領土獲得であった。

 

③●255年春 姜維北伐

狄道を攻撃。

雍州刺史王経を大破。

しかし都督雍涼州諸軍事陳泰鄧艾の速やかな救援により、

それ以上の進撃は困難になった。

狄道は落とすことはできなかった。

 

④●256年 姜維北伐

隴右の天水郡上邽を攻撃。

しかし段谷の戦いで、鄧艾により姜維は大敗。

万近い兵を失う。

 

 

⑤●257年北伐 駱谷道

都督雍涼州諸軍事 司馬望

司馬望は駱谷道の関中平野への出口にある、長城に籠る。

 

姜維のこの北伐は、

257年5月に起きた諸葛誕の乱に呼応したものだ。

諸葛誕の乱は魏の揚州寿春で起きた。

(呉の揚州と魏の揚州がある。)

 

直前に、都督雍涼州諸軍事が陳泰から司馬望に変更になっている。

 

これは、姜維にとってチャンスであった。

 

諸葛誕の乱のために、

司馬昭が、皇帝曹髦・郭太后を連れて、

号50万、実数20数万の軍勢を率いて、寿春に遠征。

関中の兵士も多数引き連れていて、

軍勢が少ない。

また、前任の陳泰と異なり、実戦経験の少ない司馬望が相手ということもあり、姜維にとって好機であった。

 

 

姜維は駱谷道を使用。

最も東の子午道は、魏の魏興郡からの攻撃があり得るので、

漢が安全に通行できる道としては、

最も早く関中平野に到達できる道であった。

 

駱谷道を通って、

真っ直ぐ北に出る出口を北谷道と呼ぶ。

ここを塞ぐように長城がある。

 

姜維はそれを知り、

東に迂回して、

沈嶺を越えて、

関中平野に出る。

そのまま西に長城攻撃のために進撃する。

 

しかし、そこに

都督隴右諸軍事の鄧艾の援軍が到着する。

天水から鄧艾到着した。

かなり迅速な行軍であった。

 

姜維は退路を固めつつ、

長城を攻撃するが、

司馬望・鄧艾の防戦により膠着状態に陥る。

そのまま半年以上が過ぎる。

 

年が明けて258年、諸葛誕が敗死したことを受けて、

手詰まりの姜維は撤退した。

 

●258年

漢中防衛体制の変更

 

⑥●262年 姜維北伐 候和の戦い

隴左の候和にて、鄧艾と戦う。

 

鄧艾に敗れた姜維は、

沓中に留まって屯田を行う。

そのまま駐屯し、翌年の鍾会の征蜀を迎える。