歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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姜維 漢に仕える経緯


253年 南安攻撃
254年6月 洮西を獲得。
255年春 狄道の戦い(狄道城から出撃してきた王経を撃破。狄道城を包囲。陳泰・鄧艾の救援で落とせず。)
256年 段谷の戦い
257年 駱谷道から進撃
262年 候和の戦い
の計6回である。

253年から257年まで5年連続で戦役を起こしている。

姜維は天水郡冀県の出身である。
諸葛亮の第一次北伐の際、
諸葛亮の第一戦略目標は、隴右の確保であった。
街亭を完全確保して、隴右から魏の勢力を追い払うのが、
目的であったが、あと一歩のところで、
馬謖が街亭の戦いで魏の張郃に敗れ、
漢が全軍撤退を余儀なくされたのは有名な話だ。

この戦いは、漢から仕掛けた7年ぶりだ。
219年に劉備が起こした定軍山の戦い以来となる。

諸葛亮は、相当に準備をしたと思われる。
この第一次北伐は、最も手が込んでいる。
諸葛亮は大きく三つの作戦を立案・実行した。
※下記は漢中からみた方角である。
・【東】上庸郡(魏に孟達が下ると、新城郡という名前になった。そのためややこしい)の
孟達の内応
・【北】斜谷道経由で、趙雲・鄧芝に関中を陽動作戦として攻撃させる。
都督雍涼州諸軍事の曹真を誘い込む囮部隊である。
本来の目的である隴右への進軍を最低でも遅らせるためだ。
・【北西】
関山道経由で、隴右を攻撃。
丞相諸葛亮本隊が作戦に当たる。
諸葛亮は岐山に布陣。
元々事前工作をしていた、天水・南安・安定の三郡を寝返らせる。

このとき姜維が漢に降伏している。
当時26歳。
魏の官吏であったが、隴の諸郡の寝返りにより、
姜維は組織的抵抗が出来なくなり、降伏したのである。

諸葛亮は姜維を高く評価し、その後の北伐に従軍させた。