歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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鍾会 初の挫折 鍾会⑦

士会たれ、士会でありたい。→それぞれ、母張昌蒲と、鍾会の思い。
才性四本論→鍾会としては、才能があれば、実績が上がれば良いという考え。
鍾会の生い立ち→父不在。母の影響が強い。かなりのハードマネジメント。

257年の母の死後、その屈折した感情が徐々に表面化する。
自分本位の策略、行動が主となる。

そうした中、
司馬昭の蜀漢討伐の諮問に対して、提言する。

司馬昭は何故か親征せず。
司馬昭は、まさか一回の戦役で蜀漢が滅びるとは思っていなかった。
鍾会が総大将。
鍾会自身は秘策があったわけではないが、
完遂できるという自身はあったのではないか。
そして、
鍾会は放伐の成功者として、成り上がろうとしていたのではないか。

世間の予想を覆す、蜀漢討伐の成功。
それも総大将鍾会を剣閣に置き去りにしての
鄧艾の急襲によるものだった。
舞い上がる鄧艾。

前漢の高祖劉邦が前202年から、途中二度の断絶を挟んで、
この263年まで、実に465年間の漢の歴史に
鄧艾が終止符を打ったのだ。


項羽と劉邦が相争って、関中進撃を目指したエピソードに似ている。
項羽が秦の主力を引きつけ戦っている間に、
劉邦が武関経由で関中の攻略に成功してしまった。
項羽は烈火の如く怒り、鴻門の会で項羽は劉邦を殺そうとしたが果たせなかった、という話だ。

鍾会が鄧艾をどれほど嫉妬し憎んだか想像に難くない。
そもそもこの遠征は、鍾会の立案なのだ。

鄧艾の行為は鍾会からすれば抜け駆けに見える。
さらに鄧艾は劉禅以下の処遇を勝手に決めてしまった。
これは鍾会のみならず司馬昭に対しても、
背反行為と見られてもおかしなことではない。

鄧艾は総大将でも何でもないのだ。そのようなことは委任されていない。
鄧艾は間違いなく舞い上がっていた。
蜀漢を降伏させるという歴史的快挙に舞い上がっていたのだ。
蜀漢を正統と見たら、蜀漢の降伏はすなわち放伐の成功なのである。
本来は放伐を実際に成功させた人物が次の皇帝、天子になる。
鄧艾はそれを主張することすらできる。
司馬炎が皇帝になるまでは、皇帝は貧しい出自だったり、
傍流の者だったりがなるものだった。
浮き足立つのも全くおかしくはない。

浮かれた鄧艾は、さらにこのまま呉を討伐しましょうと
司馬昭に進言すらしている。

鍾会は、成果が上がれば何をやっても良い、許されるという考え方を
信奉している。
それを鄧艾に同じことをやられたのだ。
はらわたが煮えくりかえるとは正にこのことだ。
腹が立って腹が立ってしょうがなかった。

謀略により、
鄧艾を逮捕、洛陽へ護送させた鍾会。
だからといって、鄧艾が蜀漢を滅ぼしたという事実は変わらない。
鍾会は剣閣で足止めを食っていたという事実も変わらない。

鍾会の屈辱感、行き場のない憤りは、
鍾会の独立へと駆り立てた。