歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

姜維が内政を顧みなかったから蜀漢は滅びたのか 姜維①

蜀漢の最高権力は、
丞相・益州刺史・録尚書事の兼任で確立。
蜀漢の最高権力者は、北伐を常に漢中から伺うので、
成都にあって後方を取り仕切るのは尚書令となる。

最高権力者+尚書令のコンビが誰になるのかが重要。

・官職は空席でも良い。
・録尚書事は2名まで。1名でも良いし、誰も任じられてなくても良い。


姜維が内政を省みなかったから蜀は滅びたのか。
姜維が北伐を連戦したから滅びたのか。


必ず官職に誰かをつけなくてはいけないというルールはない。
ある人以上の官職に誰もついていないのであれば、
結局その人が最上位。
(諸葛亮が第一次北伐の失敗により、三ランク下げて右将軍になったが、
それ以上の高位はいない。
姜維が256年に段谷の戦いで鄧艾に大敗し、後将軍になっても、
それ以上の武官の高位がいない。)

蒋琬は北伐を狙ったが、結論として果たせなかった。
費禕は蒋琬存命時から北伐反対派。
蒋琬を諌め、姜維に強く反対している。
「諸葛丞相ができなかったことを、及びもつかない我々ができるわけがない」
→手立てがない、考えられないと費禕が諦めているのに等しい。
→しかし252年に大将軍府開府の勅命。つまり北伐をやれという皇帝の意思だ。

費禕が死んだから、姜維が北伐をできたというのは少し言い過ぎ。
その前から北伐遂行の意思が皇帝及びその側近の意向があり、
費禕は渋々ながら動いたもののすぐに暗殺された。
それを継いだのが姜維だっただけ。



諸葛亮(181年ー234年)
丞相・益州刺史・録尚書事
中央行政のトップ 宰相 丞相府の開設
 地方行政のトップ 蜀は益州しか支配していないのでイコール国。
丞相は国政のトップ。軍権もここに入る。益州刺史は益州という地方、行政トップ。
録尚書事は、皇帝の内廷のトップ。

録尚書事の次席が尚書令である。
尚書令は尚書省の長官である。尚書省は皇帝への上奏を司る。

諸葛亮が丞相就任時、
尚書令は李厳であった。劉備が222年に任命してからである。

李厳は、
226年には前将軍、
230年には驃騎将軍に任じられている。
いずれも外廷の官職であるので尚書令を兼任している。

諸葛亮が223年には丞相府を開いて漢中に駐屯してからは、
李厳は尚書令として後方支援を
231年の第四次北伐まで行なっていた。
231年の北伐で虚偽で諸葛亮を撤退させた。
その責任を問われ、李厳は、解任・追放される。
李厳は追放後の尚書令は空席となった。

丞相・益州刺史・録尚書事の三官職で、最高権力を握る。
が、帝都成都に諸葛亮はいないので、尚書令が後方を差配する。


諸葛亮の死後、丞相は空位、尚書令には蒋琬が就く。
蒋琬はその後しばらくして録尚書事に昇進。
合わせて大将軍に任官。
軍権は、大将軍として掌握することになる。

蒋琬(不明ー246年)
大将軍・益州刺史・録尚書事
上記三官職は諸葛亮の死後数年で任じられる。
238年に大将軍府の開府。239年に大司馬に昇進。
→丞相位は多分永久欠番のような形での空席。
本来外廷のトップである丞相が空席。
蜀漢の支配領域=益州なので、益州刺史が外廷の事実上のトップ。
大将軍=軍事のトップ。
録尚書事=中央行政のトップ。皇帝の内廷のトップ。

費禕(不明ー253年)
大将軍・益州刺史・録尚書事
243年に大将軍・録尚書事に昇進。その後に益州刺史も任じられる。
248年からは漢中に駐屯。
252年に大将軍府開府許される。


蒋琬・費禕は諸葛亮から後継者として指名されていた。
荊州出身。

費禕は243年に大将軍になっている。
244年には魏の征蜀・興勢の役。
病に伏している蒋琬に代わり、大将軍費禕が指揮を執っている。

248年から費禕は漢中に駐屯する。
費禕は、そもそも北伐に乗り気ではなかった。
漢中駐屯後から大将軍府開府まで4年もかかっている。
北伐すべしと勅令を受けたと言ってもいいものだった。
費禕を補佐するのは、下記になる。
なお、蒋琬在任時の尚書令は、費禕である。

244年董允(不明ー246年)が尚書令。
246年から呂乂(りょがい。不明ー251年)が尚書令。
251年から陳祇(不明ー258年)が尚書令。
陳祇は、劉禅からとても信頼されていた。

姜維は243年に涼州刺史、247年に衛将軍・録尚書事。
衛将軍は、大将軍、驃騎将軍、車騎将軍の次席。
256年に大将軍。狄道の戦いの戦勝により昇進。
開府は許されていない。

大将軍になる前の253年、254年、255年は誰の裁可で
戦役を起こしたか。皇帝だ。
姜維は事実上の軍事トップだが、
諸葛亮・蒋琬・費禕のように開府しておらず、
軍権の委任をされていない。

魏には四方を守る、
都督という職位がある。
例えば都督雍涼州諸軍事といったポジション。このポジションであっても、
勝手に例えば蜀漢を攻めたりはできない。
都督雍涼州諸軍事が守るべき領域を防御するために、
兵を動かしても良いぐらいである。
魏でも、軍を動かせるのは大将軍で大将軍府を開府していた者のみ。
それは、曹爽、司馬師、司馬昭、司馬炎の四人のみだ。
司馬懿すら開府どころか、大将軍になっていない。
軍権は皇帝が持つ。皇帝のみが持つ。
これを貸与することを、「仮黄鉞」を授けるという。
単独での軍事行動を許可することを指す。
これは「仮節」と同じタイミングで貸与されるので、
「仮節鉞」という表現がよく見られる。
「仮節」は、軍法違反者を取り締まることができる権限。
単独での軍事行動ができる、軍事行動を起こす際の軍法違反者を罰することができる、というになる。軍事行動ができても、
従軍者が従わなければ、軍を動かすことができないので、
セットになっている。

軍を出して他国を攻撃するのは、
大将軍府の開府を許可されているか、
仮黄鉞を貸与されなければできない。

また、姜維は益州刺史を任じられていない。
費禕の死後誰がなったのかは不明。
姜維が益州刺史になっていないのは明確。
ここが姜維が費禕の後継者と明確に言い切れないところである。


258年の陳祇の死後の
尚書令は董厥。
261年諸葛瞻とともに平尚書事が加官。
姜維が録尚書事から外れたという記述はないので、
この平尚書事は、録尚書事の一つ下位と思われる。
樊建が尚書令となる。


245年に諸葛瞻(227年ー263年)は侍中兼尚書僕射。
尚書僕射は、尚書令の次官。18歳にてこのポジション。

黄皓は陳祇の死後、中常侍になっている。
中常侍は侍中と同様のポジション。それにプラスアルファとして、
禁中への立ち入りなどが可能。より皇帝に近い。


●蒋琬は北伐を果たせず死去。
費禕は北伐反対派。
しかし北伐をさせようとした。
皇帝劉禅の意思としか考えられない。
費禕が殺害された後、姜維と陳祇が北伐を遂行。
これは漢皇帝の意思でもあった。

姜維の後方を支援していた
陳祇が死去すると、
尚書令は董厥。
261年に董厥と諸葛瞻が平尚書事。
尚書令は、樊建。

諸葛瞻は対呉戦主張。黄皓を抱き込み、皇帝の意思を変えようとする。

姜維は対魏戦主張。

漢の論調が分裂。
建国以来よくまとまっていた漢が初めて内部分裂した瞬間だった。
姜維が北伐の遂行が不可能になった瞬間だった。
後方支援が確保できないのである。

漢中の守備体制を変更。
引き込んでから叩くやり方に変える。
帝都に戻り、北伐の支持を訴えるも、うまくいかず。

諸葛亮の子諸葛瞻を、新しく作った平尚書事に任じて、
北伐支持を期待するも、うまくいかず、姜維は
帝都を去る。
262年の候和の戦いの後、そのまま沓中に駐屯する。

蜀漢は分裂した。

ここを司馬昭と鍾会に突かれた。

皇帝が悪いのか。
姜維の能力不足か。
諸葛瞻らの問題か。
黄皓が専横するからか。

良き輔弼があれば、劉備亡き後、さらに諸葛亮亡き後の漢を運営してきた
皇帝劉禅。

臣下の内部分裂、権力闘争により、
姜維と諸葛瞻・董厥・樊建が相争ったことが、
蜀漢滅亡の原因である。

この権力闘争に
諸葛瞻・董厥は、中常侍の黄皓を巻き込んだ。
これで、姜維の殺害まで企てるようになり、
姜維は北へ逃げたのだ。

樊建は黄皓とは交流しなかった。