歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

姜維が勝手に北伐を重ねて国力が疲弊したから蜀漢は滅亡したのか。 姜維②


諸葛亮の死後、
蒋琬は何度も北伐を検討していた。
病床に伏すまでは、漢中に駐屯していた。

費禕は、北伐に前向きではなかったエピソードが多い。

例えば、姜維が北伐の実施を建言した時も、
我々は諸葛丞相に及ばない。丞相ができなかったことを、
丞相に及ばない、我々ができるのか、
という話は有名だ。

つまり、一枚岩に見える蜀漢も、
北伐派と反北伐派がいることがわかる。

蒋琬は何故できなかったのか。
三国志後主伝では、
240年に蒋琬と費禕で、北伐について数か月協議したとある。

その240年には、姜維が羌族の反乱に呼応して隴西を攻めている。

蒋琬・費禕の協議の結果、
大規模な北伐には至らなかったということだ。

蒋琬は、
238年に大将軍府の開府許可を皇帝にもらい、
漢中に駐屯していた。
蒋琬は、北伐を伺っていたのである。
翌239年には大司馬に昇進している。
大司馬は、三公の上である。
大将軍は、諸将軍の最上位。
厳密には三公と同格である。
大司馬は、三公の上となるので、文官の反対すらも凌駕して北伐せよという
皇帝の意向であったと思われる。
前漢の霍光は、大司馬大将軍として全権を掌握している。

これらの蒋琬の動きは、魏の動きに連動している。
238年に司馬懿が遼東征伐に関中の兵士を引き連れて、
出征している。一年がかりの出兵だったので、
その裏を突くためだった。
また、239年の正月には魏の明帝曹叡が崩御している。

敵国の隙を突くという意味では、
良い機会である。

しかし攻めなかった。
攻めずに、
後主伝に240年に蒋琬と費禕が北伐に関する協議を数か月するという流れになる。
念の為記すが、
羌族の迷当の反乱に呼応して姜維が隴西に侵攻している。
しかし反乱は郭淮に鎮圧されたため撤退した。
当時の最高権力者ではない姜維が出兵しているので、小規模な出兵に留めた可能性が高い。
ここで、蒋琬と費禕が協議している北伐は、諸葛亮北伐に近い大規模な出兵のことである。

皇帝の意志は明確である。
蒋琬の意志も明確である。
ここで費禕が出てくるのはなぜか。蒋琬が費禕と協議をしたのはなぜか。

費禕のその後のエピソードを考えると、
費禕の北伐反対があったことは間違いない。

しかし、蒋琬は何故そこまで費禕に気を遣わなくてはならないのか。

それは費禕が尚書令だからである。

漢の北伐に当たり、
諸葛亮は丞相府の開府、
蒋琬は大将軍府の開府、
という形で、いわば幕府を開設している。

その大目的は魏への遠征なのだが、
大規模な遠征をするにあたり、
兵站の確保は至上命題である。

諸葛亮の時には、
李厳が担った。
しかし、第四次北伐の際には、李厳が物資の輸送を滞らせため、
撤退に追い込まれた。
これは、漢国内でも北伐反対論があったことを示している。
こののち諸葛亮は3年雌伏の時を過ごしている。

満を持しての第五次北伐だったが、
五丈原にて諸葛亮は陣没した。

第五次北伐の際に誰が後方にて兵站を運営したのかはわからない。

蒋琬は丞相府付きの長史であったが、
227年の諸葛亮の北伐開始から、
成都にいた。
費禕は、丞相府付きの司馬として、第五次北伐に従軍している。
魏延の叛意を察して、楊儀に撤退を促している。

諸葛亮が開発した、木牛流馬のように、
諸葛亮が非常に兵站を気にしていたのはよく知られている。

李厳の裏切りもあって、
余程信頼の置ける人物でなければ、兵站を任せない。
となれば、諸葛亮の後継者となった、蒋琬が行っていた可能性は非常に高い。

蒋琬は、李厳の後任として、
諸葛亮の北伐を支えた。

その蒋琬が、諸葛亮の後任になった。
蒋琬としては、自身の後任を探さなくてはならない。

その後任が費禕であった。
費禕は丞相府では魏延とともに司馬であった。

魏延との仲の悪さで有名な楊儀は、
長史、
蒋琬は、
留府長史、
費禕は、
司馬である。

司馬は、軍を司る官職。

魏延とともに司馬である。

費禕は文官のイメージが強いが、
武勇にも優れていたのかもしれない。

なお、長史は丞相の補佐で、諸官の統制を行う。
丞相の副官と言ってもいい。
留府は、後方に留まるの意味である。
蒋琬は成都にいた。

しかし、費禕は、北伐を戦ったからか、
北伐反対派であった。

諸葛丞相ができなかったことを我らができるはずがないと。

戦っていなければ批判されてもやむなしだが、
北伐軍の幹部としての意見だ。

諸葛亮の北伐に従軍していない蒋琬は、費禕の意見を無視することはできない。

蒋琬はその後も、北伐を常に伺う。
241年の呉の芍陂の役の際に、
漢中から東に漢水沿いの攻撃を検討する。
魏興郡経由で、襄陽を突く。

しかしながら、
これは、山を下ることになり、撤退に難がある。
そのため諸将の反対が相次ぎ、結局出兵に至らないまま、
蒋琬が病に伏すということになった。
そして、皇帝の勅令により、襄陽を突くのは取りやめとなった。

慎重な印象の蒋琬にしては、
虚を突く面白い攻め手ではある。

しかし、
劉備の夷陵の戦いでもわかるように、
蜀から東に下ると、撤退が非常に難しい。
漢水沿いを東に下るというのは、蒋琬にしては、
思い切った作戦だ。

なぜ思い切った作戦を立案しなくてはならなかったかというと、
それは費禕の反対があったからだ。
諸葛亮と同じ作戦では、費禕は反対する。

それで、蒋琬は東に攻めることを考えた。

しかし諸将の反対があり、出兵ができなくなった。

蒋琬は病臥に伏すが、それでも蒋琬は取りやめるとは言わなかったのであろう。

だからこそここで、皇帝の勅令で取りやめとするとなる。

皇帝の意を受けて大将軍蒋琬が北伐を企図する。
しかし、兵站を担ってもらうべき尚書令の費禕が首を縦に振らない。
北伐が難しいことを訴えてくる。
兵站が機能しないと蒋琬は北伐ができない。

そこに241年呉の芍陂の役の報が入り、
蒋琬は荊州攻めを立案をする。
これでは尚書令費禕もやったことがないから、反対はできない。
しかし、漢水を下ることに諸将が難を示した。
蒋琬は、皇帝の意志があるので、覆さず、何とか進めようとしたが、
病に伏したため、皇帝が出兵の意志を諦めた。


●●●
いよいよ病が篤くなった蒋琬は、243年に
皇帝の勅許を持って、漢中から涪城に駐屯地を変える。

同年、
費禕が大将軍、録尚書事に任官される。

合わせて、同年
姜維が涼州刺史に任じられる。

当然、涼州は魏の支配下にある。
そのため、姜維は皇帝から涼州必ず取るべしと言われたのに等しい。
ここに蒋琬の意志も感じられる。
何故なら、それまで任じられていなかった涼州刺史という官職が出てくること自体、
蒋琬のアイデアだと考えられるからだ。

この蒋琬が漢中から下がったことを受けて、
魏の曹爽が征蜀の兵を挙げる。
244年興勢の役である。

これを費禕は見事撃退するも、だからと言ってすぐに漢中に駐屯しなかった。

そこで、大きな人事が行われる。
247年に姜維が、
衛将軍・録尚書事に任官されたのだ。
録尚書事というのは、必ず加官である。
本官があって、プラスアルファの役職が録尚書事である。

そして、録尚書事の方が重要である。
尚書省を統括するポジションである。
尚書令という尚書省の長官の上席である。

尚書省は皇帝への上奏を取り扱う部門で、
そのトップである録尚書事は皇帝権へアクセスできるポジションである。

魏の事例を考えると、
2人まで任官できるようだが、
漢(蜀漢)は、これまで1名が原則だった。

243年に費禕が録尚書事に任官されたときに、
蒋琬は録尚書事を降りているわけではない。
なので、246年までは録尚書事は、蒋琬と費禕の二名だったことになる。
ここで、蜀漢の録尚書事が1名のみという慣例が崩れた。
蒋琬は246年に死去する。

その翌年の247年に姜維が録尚書事となった。
衛将軍は、大将軍、驃騎将軍、車騎将軍に次ぐ武官である。

この時点で姜維は、
衛将軍、涼州刺史、録尚書事である。

費禕は、
大将軍、益州刺史、録尚書事である。

驃騎将軍、車騎将軍は常設でない。
このとき空席であったと思われる。

衛将軍も常設ではないが、ここで姜維が任じられたことで、
費禕の次席であることは明確である。
そして、費禕が蒋琬の死により、一人で録尚書事になっても良いものの、
姜維が録尚書事に任じられたことで、皇帝の意志はやはり明確である。

そこで、費禕は、渋々248年に漢中に駐屯する。
イメージのつかないものをやらされる、費禕の心中も察するが、
蜀漢の事情を考えればやむを得ない部分もあるのだろう。

このあたりで、費禕と姜維のエピソードがあったと思われる。
丞相に劣る我々では、北伐を成しえないと。

その後、費禕は251年に帝都成都に戻っている。

この間尚書令は下記である。
244年董允(不明ー246年)が尚書令。
246年から呂乂(りょがい。不明ー251年)が尚書令。
251年から陳祇(不明ー258年)が尚書令。

呂乂が死去しているので、
後任人事のためかと思われる。

その後、成都に凶兆があるという言葉を受けて、
漢寿(劉備のころは葭萌と呼ばれた地。劉備が220年に漢寿と改名した)に駐屯した。

252年には大将軍府の開府を勅許される。
勅許という言葉を使うことにはなるが、
これは費禕の意向でないことは明確である。

このときに費禕が駐屯している漢寿は、蜀であり、漢中への出口に位置するも、
当然漢中ではなかった。

大将軍府の開府をしろと命じられたものの、
漢寿から動かない費禕。

そうして、253年の正月の宴会で、
姜維の涼州出兵の際に、漢に降伏してきた郭循が、
費禕を殺害するのである。

果たして誰の差し金だったのだろうか。

こうして、
皇帝、諸葛亮、蒋琬、姜維念願の
北伐は開始されることになる。