歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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鍾会の作戦は漢中まで~鍾会⑧~

鍾会の作戦は漢中までだったと思われる。

 

鍾会が確実に見込んでいたのは、

漢中攻略まで。

 

それ以後は、状況次第だったと

私は主張する。

 

漢中は盆地である。

 

南に蜀、現在の四川省がある。

 

北に関中、渭水盆地がある。

 

漢中の北には秦嶺山脈が東西に広がる。

太白山という富士山並みの高山もある。

 

この山脈を通る道の一つが、

蜀の桟道である。なお、これは北側の桟道である。

 

南は、南西に道を取る。

漢中から、西に陽平関を出る。

その後関城に至る。ここを北には行けば、

武興で、武都郡に入る。その先は祁山だ。

 

この関城を南西に下がる。

 

そうすると剣閣がある。

 

この先が、南側の蜀の桟道である。

 

二つあの崖っぷちに穿った木製の橋の道路があるのである。

 

これを乗り越えると、

梓潼(しどう)に辿り着く。ここから蜀である。

 

その後は、成都に向けて西南方面に行く。

涪城、綿竹、雒城、そして成都である。

 

ということで、

漢中と蜀は実は、地域的に完全に分離している。

 

蜀は漢中がなければ、関中を攻められない。

関中は漢中がなければ、蜀を攻められない。

 

蜀と関中にとって、お互いに往来するには、

置石のような位置にあるのが、この漢中である。

 

その漢中は、南北をあの蜀の桟道でしか、通行できない。

 

中華思想だったり、

高祖劉邦の創業の地であったりといった事績がなければ、

全く別の国といってもいいぐらいの、陸の孤島だ。

 

すなわち、一気に取ろうとすること自体が無謀なのである。

 

後漢光武帝のように、天下統一の最後の総仕上げでもない。

まだ呉は生きている。

 

漢中が取れれば、万々歳なのである。

漢中さえ押さえれば、蜀漢は魏を攻める事は非常に困難になる。

 

戦略的意義も非常に大きい。

また、ここは一旦214年に

曹操が張魯を攻略して獲得したにも関わらず、

その後219年に劉備が漢中を攻め、奪われた土地だ。

 

まだ魏の時代ではなかったとはいえ、

魏にとっての故地でもある。

曹操が失った土地を取り戻すという政治的意義も大きい。

 

鍾会はこの征蜀が初めての総大将である。

いくら才があるとはいえ、一気に蜀漢を滅ぼすということまで

司馬昭が考えるとは思えない。

歴史的事例を紐解いても、

現実的にありえないのである。

 

だからこそ、司馬昭は親征しなかった。

蜀漢を滅ぼせるとは思っていなかった。

少なくとも、すぐに滅ぼせるとは確実に思っていなかった。

 

蜀漢を滅ぼす=漢の放伐成功なのである。

天命が易わるのである。

 

その総大将は必ずその天命を受けるものであった。

 

司馬昭がそれを知らないわけがない。

 

結論として、鍾会は漢中獲得の戦略を立て、兵を起こした。

成功した暁には、状況によって判断をする。

二世らしい判断ではないかと思う。

 

 

漢中制圧までは全く鍾会の読み通りだった。