歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

姜維は何故費禕を暗殺したのか=北伐前提で国をまとめた諸葛亮、北伐が至上命題になった経緯= 姜維⑥

そもそも、
蜀漢内において、北伐の是非が論争されたことが対立の原因である。
 
 
北伐がまず前提となったのはいつか。
 
やはりそれは諸葛亮による。
 
222年に建国された蜀漢。
自身は、漢と称する。
後漢献帝による曹丕への禅譲を認めず、
曹丕の弑逆によって、皇位が簒奪されたという
立場を取る。
 
確実に、目で見てなければ、確認ができない。
曹丕の敵対国である、
この劉備政権が禅譲はないと言うことも可能である。
 
 
建国当初の蜀漢はどういった状態だったか。
 
219年7月に劉備は漢中王についている。
定軍山の戦いを勝ち切り、夏侯淵を敗死させ、漢中の支配を獲得した。
 
ここで関羽は前将軍・仮節を受けている。
仮節は勝手に軍を動かしていいという
ことではなく、
軍法違反者に対しての執行権である。
 
なので、独断としか考えられない。
 
219年の秋に関羽は独断で、
魏の曹仁が守る樊城を攻撃、
陥落寸前まで追い込んだ。
しかし、背後を孫権に襲われた。実際の実行者は呂蒙・陸遜である。
荊州支配権に関して、劉備と孫権は見解が相違しており、
係争地となっていた。
長江以南の劉備政権荊州支配の本拠地公安を奪われる。
 
関羽は荊州を事実上の失い、
さらに孫権は北に進路を変え、関羽の背後を狙う気配を見せる。
 
関羽は樊城から撤退するも、
南北に挟撃され、
219年12月に敗死する。
 
曹操は翌220年の正月に死去するので、
曹操にとって最後の大きな事件であった。
 
これにより、
劉備政権は、荊州の支配権を失う。
 
劉備は長らく、各地の有力者に寄寓しており、
この荊州が初めての自分の領地だった。
 
荊州の長江以南を、赤壁の戦いの後の権力空白期間に
乗じて、器用に獲得した。
 
劉備にとっては領土が飛躍的に増えた。
そのため、現地にて官吏を採用している。
 
この中にのちの大将軍・録尚書事の蒋琬もいる。
 
多数の官吏を荊州南部にて劉備は採用した。
 
劉備政権には荊州出身者が多いと言える。
 
諸葛亮は、徐州瑯邪郡の出身だが、
曹操の徐州虐殺から避難して荊州に辿り着いている。
 
名声を得たのは荊州襄陽であるので、
事実上荊州出身と言ってもいいであろう。
 
荊州出身者が多数を占める劉備政権にとって、
荊州南部は創業の地であり、故郷でもあった。
 
それが関羽の失策で奪われた形となった。
 
曹丕の禅譲(蜀漢から見たら簒奪)を受けて、
222年に漢を復興させる劉備政権。
 
その支配領域は、
蜀と漢中のみであった。
 
劉備はすぐに孫権攻めに取り掛かる。
 
これは良く関羽の弔い合戦と言われている。
 
これも一つの事実であろう。
桃園の誓いはフィクションだが、長年苦難を共にした
劉備と関羽。
関羽は曹操に仕えるチャンスもありながら、
それを蹴ってまで劉備のところに戻った。
深い信頼関係があった可能性は非常に高い。
 
一方で、劉備の孫権攻めは、強い批判を浴びる事績だ。
失敗したのだから仕方がないが、
荊州人士の支持を得るための出兵とも考えられるのだ。
 
劉備が荊州で登用した人物が全て、
蜀に家族親戚まで引越させているわけではない。
 
当時引越というのは、
あまりない。
本貫地という出身地にこだわる文化があり、
曹操の徐州虐殺で一族共に襄陽に逃げてきた諸葛一族といった
事情でもない限り、蜀が本拠になったかとして、
引越させるわけではない。
 
荊州人士の家族親戚のある程度は、
荊州にそのまま滞在しているのだ。
 
関羽の失策によって、
それら家族は孫権に質に取られた形となる。
 
支持を得るため、それら荊州人士のためらいのない活躍のために
孫権攻めは必要だったともいえる。
 
この孫権攻めは夷陵の戦いと呼ばれる。
 
これに関して、誰が反対し、誰が賛成したという話はもちろんあるが、
ここでは考慮に入れない。
 
この蜀漢は、後世において、政治的に正統としなければならなかった事情が在り、美化され過ぎている。
 
司馬師・司馬昭は、逆に悪く書かれ過ぎているので、
称賛されている部分は信用できる。
 
蜀漢は逆に、いつ、だれが、どこにという事績ベースと、
批判されている部分しか、信用することが難しい。
 
当然蜀漢で最も美化されるのは、
諸葛亮だ。
 
諸葛亮はこの夷陵の戦いに従軍していない。
夷陵の戦いには反対だったと言われる。
 
そのような事情から、
後方に留め置かれたと推測されがちだが、
諸葛亮は劉備に仕えてから基本的に後方を守る立場だ。
 
劉備の入蜀には最後には蜀に来たが、
はじめは荊州留守であった。
 
漢中攻めも諸葛亮は成都にて兵站担当だ。
のちの蜀漢北伐の際の録尚書事―尚書令を思わせる
体制である。
 
漢中攻めは、総大将劉備が成功させたものである。
 
ということで、劉備は決して戦下手でもない。
漢中攻略の際には、最後に曹操親征というおまけまで付いてきたが、
最後には撤退させている。
 
劉備の入蜀の際には、
三万の軍勢で、周囲が全て敵の中、
孤軍奮闘で粘っている。
 
本当の戦下手であれば、
ちょっとした隙を突かれて瓦解していたであろう。
 
夷陵の戦いも、劉備の暴走のように描かれることが多いが、
蜀漢にとっての本気の攻めだった。
 
総大将として、最も実績のある劉備自身の親征である。
 
しかし、負けた。
 
劉備は、敗走し、永安に入る。
そこでそのまま滞在し、病に伏す。
後事を諸葛亮と李厳に託して崩御する。
 
諸葛亮は、このとき、蜀漢におけるNO.2である。
 
もちろん、NO.1は劉備である。
 
諸葛亮は、丞相・録尚書事であった。
常に劉備の後方支援を担った。
劉備の不在を確実に守っていた。
 
繰り返しになるが、後の
録尚書事―尚書令体制と同じ関係である。
 
さて、ここで諸葛亮が行った、または既に実施したことは下記である。
 
・蜀科の制定 法律を作成し、施行。
・蜀の南方が不安定なので、確実に治める。諸葛亮の南征。
・呉との修好。劉備が夷陵の戦い敗北後在命時にも孫権との交流はあったが、
本格的な修好は、劉備の崩御後で諸葛亮による。
すなわち東は攻めないということである。
・北伐の実行。
劉備崩御の4年後に、
第一次北伐は227年の12月に開始する。
 
呉を攻めないことに諸葛亮はした。
 
これは流されそうな事実であるが、
そう単純なことではない。
 
荊州人士が故郷を取り戻すことを諦めろということだ。
 
では、どうするのか。魏を攻めるということだ。
蜀漢から魏の攻め先は、三つ。
全て漢中が起点になるが、
北に関中、
北西に隴、
東に魏興郡、上庸、そして襄陽・樊城
だ。
これを、諸葛亮は第一北伐ですべてを攻撃している。
陽動も含まれるが。
 
この蜀漢は、漢である。
漢として、魏曹丕が跋扈しているので討伐しなくてはならない。
正統王朝漢として、討伐すべきなのは魏である。
 
故郷云々言っている場合ではない。
 
これを荊州人士のトップ諸葛亮が言うことに意味がある。
 
諸葛亮はこれでまとめたのである。
 
呉の孫権との修好は、孫権の意向もやぶさかではない様子。
断交していない時点で脈はある。
孫権の、裏切りは許しがたいが、この蜀漢との修好をするということは、
すなわち、この復興漢王朝の蜀漢を認めることである。
 
名目上は呉は参加となる。
223年当時は、孫権は魏皇帝曹丕から贈られた呉王である。
 
蜀漢との修好は、名目論でいえば漢皇帝の傘下に入ることになる。
 
それで赦そうではないかと。
 
劉備の大敗後ということもあって、表立っての反対はしにかっただろうが、
諸葛亮はこのように各人を説得したはずだ。
 
そうでなければ、故地荊州の奪還を諦めるなど、簡単に全員ができるわけがない。
 
こうして、北伐は、蜀漢の国是となった。
 
魏の北伐で、諸葛亮は蜀漢をまとめたのである。
東は見ない、北を見ろと。
 
なお、この北伐を前提とした国のまとめ方は、
後年の東晋丞相王導と同じであることを付記したい。