歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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姜維は何故費禕を暗殺したのか~北伐支持派と反対派〜姜維⑦

魏を討伐することで、蜀漢をまとめた。

政治家諸葛亮の本領発揮である。
このバランス感覚が諸葛丞相らしい。

荊州は捨てて、
魏に立ち向かう。

これを国策にすることでまとめた。

自身の出身地でもある荊州を捨てられたのは大きい。

かと言って、
諸葛亮は焦らずまずは国内を固めた。

南征をして、
満を持しての北伐であった。


私は曹叡まで引っ張り出した第一次北伐こそが

諸葛亮の乾坤一擲だったと思う。

しかし成功しなかった。

北伐をくりかえすが繰り返すが、成功しない。

蜀漢の北伐に対する、最初の具体的な反対者は、
李厳である。李厳は蜀漢の建国以来尚書令であった。
(その前任者は法正である。)
231年第四次北伐で、
諸葛亮が祁山にて司馬懿と戦った時だ。

李厳は長雨で兵糧の輸送がうまくいかないので、
撤退をするように、と進言し、
諸葛亮は止むを得ず撤退した。
諸葛亮は撤退後、その李厳の進言が虚言だったことを知り、
李厳を尚書令から免官のみならず、朝廷から追放した。
これは厳罰処分である。
本来は、降格、いっても地方へ左遷がいいところであろう。
諸葛亮が激怒したことがわかるエピソードである。
そのぐらい、諸葛亮にとってショックなことであった。
この第四次北伐の後、諸葛亮は3年漢中に留まり、
蜀漢内の統治に力を割いている。

尚書令の後任者も見当たらず、
李厳解任の経緯を考えると、
諸葛亮が尚書令の任務を引き取ったのであろう。
兵站関連は、丞相府の留府長史であった蒋琬が担った可能性が高い。
ほかの諸業務は実際は丞相府のメンバーが処理をすることになる。
ただ、丞相府のメンバーが裁定するにしても、法の運用などは、簡単ではない。
結局、諸葛亮に決裁を仰ぐ形になる。

これが、最終的には鞭打ち20回以上の裁定を諸葛亮が
行うということにつながった。

満を持して第五次北伐を行なったが、
諸葛亮は五丈原にて陣没する。

蜀漢の喪失感は大変大きなものであっただろう。


後任の蒋琬は
諸葛亮という存在に配慮しながら、
諸葛亮の政策を踏襲する。


そこに出てきたのが、
現地の益州人の反対である。
費禕が首領格である。

蒋琬は自身で軍を率いたことがなかった。
しかし北伐がなければ国内はまとめきれない。

費禕も同じだった。
反対しないと益州人をまとめきれない。

両者とも政治家なのだ。

そういうモーションは必要である。

費禕が粘ったとも言える。

反対は諸葛亮に逆らうもの、
臆病者と言われる。
にも関わらず、反北伐を主張できたのは、
費禕自身も相当タフである。

そもそも、戦争というのは事業である。
人をはじめ物資を徴発して、
戦争を行う。その対価はこの時代においては、
土地である。
土地の獲得が投資リターンだ。

諸葛亮の北伐ではそれがなかった。
そもそも、諸葛亮は相当な期待を受けていたので、
できた北伐である。
しかしその諸葛亮が死去した今、北伐の成功、
リターンの回収は難しいと考えるのは妥当だ。
特に益州人の負担は大きい。

荊州人は身内が益州人よりも蜀にはいない。
益州人は当然荊州人よりも負担が大きくなる。
自身の身内が資産を奪い取られることになる。

荊州人と益州人をそれぞれ代表する蒋琬と費禕が
並び立つ時期は膠着状態でそれはそれでよかった。

その均衡は蒋琬の死去で崩れ始める。

荊州人を押さえていた蒋琬の死去により、
荊州人の北伐積極派が盛り返す。


蒋琬自身は荊州人なので、
諸葛亮を継ぎたいという思いはあったであろう。
当然このまま何もしなければ、
魏よりも蜀漢の方がジリ貧になるのは自明である。

しかし、軍事経験の乏しい蒋琬が北伐成功の自信があるかというと、
それはなくて当然である。

費禕ら益州閥の反対を敢えて跳ね除けるほどでもない。

ここに政治的妥協が産まれたわけである。


姜維は、涼州出身である。
この蜀漢においては、異色の本貫地である。

そして、姜維は軍人だ。
政治家ではない。

政治的妥協などに理解は示さない。

姜維は当然で故郷である涼州、すなわち隴を取りに行きたいとなる。

その思いを後押しする理念は諸葛亮が提示している。
この蜀漢政権は、漢であり、魏を討つべく北伐をすべきなのである。

それが、費禕の暗殺という結果を生んだ。

ここに、蜀漢内の政治的均衡、妥協は潰えたのである。

なお、251年から258年まで姜維を後押しした、
陳祗は、豫洲出身である。
父を幼少の頃に亡くしていた、
陳祇は豫洲の名士許靖のもとで育てられていた。
この許靖は、最終的に劉璋の招聘を受け、蜀に移動している。
陳祇は清流派名士の流れを継ぐもので、
諸葛亮の北伐論に賛同していたと思われる。


なお、
荊州人と益州人が主に蜀漢を支えている。
この構図は現代の台湾と同様である。
現代の台湾は、
中華本土から蒋介石が逃亡してできた政権である。
蒋介石とともに台湾にやってきた者たちを
外省人と呼ぶ。
元々台湾にいた人たちを本省人と呼ぶ。

外省人は、国民党の支持基盤で、
その由来から、台湾の支配者階級を占めている。
本省人は、民進党の支持基盤で、
外省人よりも優遇されないので不満を抱えている。
台湾として独立を目指している政党である。

台湾は、中華民国である。
中華民国は、中華本土を全て統治する権利があるのだが、
中国共産党という賊がはびこっているので、
正常な統治ができないという立場だ。

唯一実効支配できているのが、
台湾省である。
そういう考え方に立脚している。

これは、全く三国時代の蜀漢と同じである。

蜀漢は、
中国史上、初めての流寓政権であり、
のちの東晋をはじめ、
この蜀漢のスタイル、というよりも諸葛亮が取った
やり方がことごとくベンチマークされるのである。