歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

蜀漢がたった3ヶ月で滅亡した原因は何か。

姜維と諸葛瞻以外、
まともに戦っていないことが大きい。

つまり各城主とも、徹底抗戦せずに、
降伏しているのである。

これは、何故だろうか。

例えば、劉備の入蜀の際には、
劉璋サイドの各城主が籠城して抗戦している。

にも関わらず、
何故降伏が多かったのか。

戦意がないということになる。
その原因は何か。

姜維が費禕を暗殺したことにある。
益州人を代表していた費禕は、
姜維により不当な手段で殺害された。
これは益州人が間接的に弾圧、脅しをかけられたとも言える。
録尚書事の姜維が、同じ録尚書事の費禕を殺害することで、
益州人の意思は政策反映されなくなった。

姜維は荊州人の北伐賛成派の支持を受けて、
北伐を敢行する。

しかし姜維は目覚しい成果を挙げられなかった。

段谷において鄧艾の前に大敗し、
蜀漢国内において、
反対論が燻り始める。

258年に姜維が関中に進出できなかったこと、
尚書令で北伐支持派の陳祗の死去、
この2点が、北伐反対論を再度復活させた。

録尚書事姜維は、
成都に戻る。
各有力者とコミュニケーションを取っただろうが、
費禕の暗殺という強行手段までしたにも関わらず、
成果を挙げられなかったという事実に変わりはない。

この時点で、姜維は政治的に著しい信用の毀損をしていたのである。

258年に陳祗の後任の尚書令に就いた董厥は荊州人。

261年に姜維の録尚書事の下位に、
平尚書事に董厥と、諸葛亮の息子の諸葛瞻が任官される。

諸葛瞻は227年に蜀にて産まれたが、父の経緯もあり、
荊州閥である。

董厥の後任の尚書令は、
樊建。樊建も荊州人である。

董厥、諸葛瞻、樊建の3名とも
荊州閥だが、全員すべて北伐に反対する。

それでも、姜維の北伐推進のロビー活動は
激しかったのか、
董厥と諸葛瞻は、宦官の黄皓まで巻き込んで、
北伐の中止をしようとする。

姜維を益州刺史に任じて成都に召還することで、
北伐ができないようにしようとしたほどだ。

益州人、荊州人ともに、
北伐に反対していた。

唯一姜維のみが北伐をしようとしていた。

姜維の費禕暗殺は、
諸葛亮が作った蜀漢の一体感を破壊した。
強行手段に出てまで行った北伐は、
著しい成果を挙げられず、益州人の失望を買った。

そんな益州人の影響を受け、
荊州人も北伐への意欲は減退した。

つまり、姜維以外は、
北伐をすることに萎えたのである。

いたたまれず、沓中に去った姜維。

そうした中の263年、
魏による征蜀である。

蜀漢国内に戦意がないのはやむを得ない。

戦意があったのは、
姜維とその指揮下の武官、
建国の元勲諸葛亮の息子、諸葛瞻ぐらいであった。

抵抗がなければ、3ヶ月で蜀漢は滅びるわけである。