歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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漢皇帝劉禅は魏皇帝のアンチテーゼ

※敢えて漢皇帝・蜀漢皇帝という呼称を使って、
事績を考える。

●蜀漢皇帝・・・
223年の父帝の崩御を受けて即位。
当時在位40年を迎えていた。

蜀漢建国の経緯から、
諸葛亮が定めた国策北伐を前提に統治。

あの諸葛亮ですら成し得なかった北伐。
益州人たち費禕らの北伐反対論もわからなくもない。

しかし、北伐無くしてまとまらないのが、
蜀漢である。

その絶妙な政治バランスを、この皇帝は
うまく扱ってきたと私は主張する。

蜀漢内が北伐に傾けば、
録尚書事に姜維をつけたり、
さらに北伐論が高まれば嫌がる費禕を尻目に、
大将軍府を開府するよう勅命を出したり。

しかしこの政治バランスが理解できなかった
姜維による費禕の暗殺は、
諸葛亮・蒋琬・費禕、そして蜀漢皇帝が
守ってきた政治バランスを崩壊させた。

この事実は大きい。

姜維の北伐がうまくいかなかった今となっては、
荊州人、益州人とのバランスをとりながら、
現状維持をするほかなかろう。

ただし、姜維に対して、強制的に
成都に召還するというところまで皇帝が踏み込むのは、
今までの慣例上やりにくい。
いくら最高権力の皇帝とはいえ、
それを一度してしまったら、さらに政治バランスが崩れる。

この蜀漢皇帝は、
こうした政治バランスに配慮できる皇帝であった。


漢皇帝のスタイルは、
魏皇帝へのアンチテーゼ。
見事に儒家の君主、
法儒を交えた、漢の皇帝足り得るものである。

父帝劉備は、
曹操のアンチテーゼである。
劉備の元には、
劉備を慕う者も当然多いが、
曹操が嫌いで劉備についた者も多い。


漢皇帝の治世40年の間に、
異民族の反乱はあるも、漢人の反乱はない。

中華民国は、台湾に逃亡後すぐに、
台湾で、白色テロルと呼ばれる
厳しい弾圧を行った。
地元の台湾人から強い反発を買った。
最終的には蒋介石・蒋経国体制は、終焉を迎えて、
台湾出身の李登輝に政権を譲る。

東晋は、反乱が頻発した。
皇帝権が非常に弱く、皇帝自身が
臣下を排除しようとして
逆にやられたことも多々ある。
皇帝と臣下は対立関係にあった。
東晋は蜀漢と同じ、流寓政権であった。
皇帝自身の出身地が別地域であるのは当然で、
諸官吏の出身地もバラバラであったことは同じである。
なのに、東晋では
反乱が頻発、
まとまりのない国であった。

翻って、蜀漢は
皇帝と臣下が対立することはなかった。
臣下が反乱を起こすこともなかった。

これは漢皇帝がなにもしなかったからゆえなのか。

※劉禅という名前、そのインパクトの強さは、
冷静な判断力を失わせるのに充分である。