黒田如水、長政は間違いなくキリシタン、
細川忠興もキリシタンである。
しかし、関ヶ原の戦いで、ガラシャを忠興が見切ったことで
両家は仲が悪くなった。
石田三成を襲った七将は、キリシタンがかかわっている可能性が高い。
豊臣政権は、キリシタンを禁止した。豊臣秀吉の死後、豊臣政権の主宰者は石田三成である。
その反発で家康についたと思われる。
キリシタンが許容されれば、豊臣でよかったが、関ヶ原後、
キリシタン容認姿勢の徳川が政権を握る。
■七将(石田三成を襲った)
福島正則(尾張清洲城主)
加藤清正(肥後熊本城主)
池田輝政(三河吉田城主)
細川忠興(丹後宮津城主)
浅野幸長(甲斐甲府城主)
加藤嘉明(伊予松山城主)
黒田長政(豊前中津城主)
●細川忠興(丹後宮津城主)・・・
父親は幽斎。妻が一人しかいない。
戦国期にはとても珍しい。忠興の妻は、ガラシャ。キリシタン。
これで息子がキリシタンでない理由が見つけにくい。
●池田輝政(三河吉田城主)・・・
父親は池田恒興。恒興も妻が一人しかいない。恒興もキリシタンの可能性が高い。
だからこそ、乳兄弟の織田信長が本能寺で殺されても、平然と秀吉につく。
●黒田長政(豊前中津城主)・・・
長政の父親は如水。如水も妻は一人。
長政自身も洗礼名・ダミアンがある。
加藤清正、福島正則、細川忠興、浅野幸長、黒田長政、蜂須賀家政、藤堂高虎
徳川家康の書状では、この七名が七将。
輝政は家康の婿であり、それで外れたかもしれない。
蜂須賀と藤堂は、稀代の謀略家。
福島正則・加藤清正・浅野幸長は、豊臣政権で優遇されておらず、また秀頼の血筋問題もあり、
権力奪回をしたいという企みから、
キリシタン勢力に乗せられたのである。