歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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諸葛瞻が黄皓を引っ張り出した。

諸葛瞻(しょかつせん。諸葛亮の息子。227-263年)の登場が蜀漢を破滅に向かわせた。

 

魏が蜀漢討伐を開始した時、

諸葛瞻は、平尚書事・衛将軍であった。

衛将軍は、費禕が存命時のときの姜維の官職である。

費禕は大将軍・録尚書事で、姜維は衛将軍・録尚書事であった。

武官としては、

大将軍・驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍の順番だが、

必ずしも誰かがその官職につかなくてはいけないわけではない。

なので、姜維は、費禕存命時、衛将軍として費禕の武官次席であった。

 

録尚書事は、二名体制。なお、本官、メインの官職があり、

それにプラスアルファされるのが、録尚書事である。加官という。

費禕と姜維では、本官が費禕のほうが上なので、姜維は録尚書事としても次席となる。

 

しかし、同じポジションなのは非常に大きい。

 

それに対して、諸葛瞻は、

衛将軍である。

しかし、諸葛瞻が

衛将軍に就いた261年当時は

大将軍姜維の武官次席にはならない。

259年に張翼が左車騎将軍、

廖化が右車騎将軍に就任していた。

258年陳祇の死後、姜維の反北伐派対策としての昇進である。

 

また、257年には閻宇という人物が

右大将軍という位に就いている。このあたりから、姜維に対する風当たりは強かったわけである。

馬忠・張表(張松の一族)の後任として、蜀漢南部の統治に当たったとされる。

降(らいこう)都督として、任務に当たった。

降都督とは・・・

四川省の大渡河(沫水)という大きな河の南側を統治する。

建寧郡味県に駐屯。今の昆明の東。

この大渡河という河は、流れが急で水量も多い。

この大渡河を渡るのが難儀なため、四川省はこの大渡河

の線で南北に分断される。

 

なので、諸葛瞻は武官第五位の席次である。

 

平尚書事は、録尚書事姜維の下位にあたる。

董厥とともに、平尚書事である。

平尚書事は261年に新設され、諸葛瞻と董厥が就任した。

董厥は、平尚書事に就く前は、尚書令だった。

尚書令はひとりのみなので、諸葛瞻は、董厥の下位であったことになる。

諸葛瞻の平尚書事は抜擢であったことがわかる。

陳祇後任の董厥は、北伐反対派であったので、

姜維としては、諸葛瞻の北伐支持を期待した可能性が高い。

 

しかし、諸葛瞻は北伐に反対した。

董厥に同調したのである。

おそらく、261年に平尚書事に就いたあとだと思われる。

姜維が諸葛瞻の平尚書事就任に反対したなどという話もないので、

これは姜維の意向も入っている可能性が高いわけだ。

 

諸葛瞻は丞相諸葛亮の息子として、

荊州人の象徴で、益州生まれとして益州人の支持も得やすい。

 

かつ忘れられがちな事実だが、諸葛瞻は漢皇帝(劉禅)の公主(皇帝の娘)を

正妻に迎えている。

 

漢皇帝の婿なのである。

 

皇帝の婿は、北伐反対で、姜維の更迭を模索した。

しかし、漢皇帝は姜維を更迭しなかった。

 

なぜわかるか。

 

皇帝の婿で、功臣諸葛丞相の息子が提案をして通れば、

皇帝の使用人・宦官が出てくる隙は無いのである。

 

つまり漢皇帝は諸葛瞻の提案を蹴ったのである。

 

しかし諸葛瞻はそれでは諦めず、

宦官黄皓にアクセスし、皇帝の意向を変えようとしたのである。

 

元々30年以上黄皓を使っていた漢皇帝は、

黄皓など取るに足らない人間と考えていた。

 

そもそも諸葛瞻が引っ張り出さなければ、

政治の舞台に立つことはなかった。

 

漢皇帝は

黄皓を姜維のところに出向かせ、謝罪をさせている。

姜維が黄皓の誅殺を願ったからである。

 

漢皇帝からすれば取るに足らない人間で、単なる使用人なので

そうさせたに過ぎない。

 

そもそも漢は北伐推進派と北伐反対派の微妙なバランスの中でやってきた。

常にそれぞれの立場を代表するまっとうな人物が主張しあい、

やってきた。

 

今までの流れからすれば、漢皇帝は大将軍録尚書事の姜維を

尊重したに過ぎない。

結構、この漢皇帝はぶれないのである。

 

しかし姜維は、危険と感じ、沓中に逃亡した。

北伐反対派との緊張関係があったこともあるだろうが、

一番の理由は、姜維自身が費禕を暗殺したからこそ、自身も暗殺されるかもしれないと

感じたことであろう。

この逃亡は少々極端すぎる。

 

上記に事例として出した、

このあたりのエピソードも、

漢皇帝劉禅を貶めるための部分もあるので、

何とも言えない。しかし事実だとしても、これだけで

劉禅を無能ということは難しいと私は考える。

 

 

姜維は258年まで北伐を5年連続で行った。

それを後方にて支えたのは陳祇だった。

しかし、陳祇が258年に死去した。

姜維は北伐をしなくなった。

その後、張翼や廖化のそれぞれ左・右車騎将軍や、

建国の元勲武官の叙勲など、

姜維が武官の昇進に動いたのも事実である。

 

261年の

平尚書事諸葛瞻と董厥の昇進も事実である。

262年に姜維が沓中に去るのも事実である。

 

これらの事実を元に、

エピソードを当てはめると、漢皇帝の良識的な判断が際立ってくるのである。

 

むしろ、外戚である諸葛瞻が宦官と組むという行為は、

後漢の轍に習わず、歴史を知らないと言わざるを得ない。

 

とはいえど、

263年当時36歳の諸葛瞻が、

荊州人や益州人を代表するということは難しかったと思われる。

 

姜維は、61歳、

漢皇帝は、56歳と、

両者とも権力者としての経験は老練である。

 

荊州人や益州人は、

大将軍姜維や漢皇帝に影響を与えるような人材が

枯渇したからこそ諸葛瞻を担ぎ出した可能性が高いと私は考える。

 

つまり、諸葛瞻は振り回された。

 

当時の諸葛瞻は、判断して実行する能力は事実上持つことができなかったのである。

 

そうした中の、魏による蜀漢討伐だった。