歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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諸葛瞻こそ蜀漢滅亡のキーパーソン

諸葛瞻。

一般的な認知は、
魏、というより司馬昭の命による、
鍾会らの蜀漢討伐の際、
綿竹にて鄧艾に敗死したという
ものであろう。

諸葛亮の息子として、
蜀漢の滅亡に殉ずるふさわしい死。

このイメージだ。

しかし、そう事は単純ではない。

基本的に諸葛亮関連の人物は、
美化されている。

蜀漢正当論の影響もあって、
諸葛亮は後世の政治的必要性もあって、
どうしても美化されがちである、

諸葛瞻も上記のエピソード以外、深く掘り下げられることもない。

また諸葛瞻自体、そこまで際立った実績もないので、
諸葛亮の子供の割にはフォーカスされることもあまりない人物だ。

そうはいかせない.

私は諸葛亮に恨みがあるわけでもない。
むしろ好きな方であると自認している。
だからこそ、
私は、諸葛瞻のことを不肖の息子と言い切る。


諸葛瞻は227年に生まれ、
263年に戦死している。

諸葛亮晩年の子で、
諸葛亮が46歳のときに生まれた。母は不明だが、
諸葛亮正妻である黄氏も、近しい年齢であっただろうから、
黄氏の子ではないのだろう。史書には記録はない。

蜀漢はよく知られているように、
創業者は劉備だが、
制度や国策、方針などを整備したのは、
諸葛亮である。

諸葛亮は、
建国の元勲どころか、事実上の創業者に見ることもできる。
もちろん、劉氏であることが蜀漢、漢皇帝の前提なので、
劉備・劉禅は不可欠なことは付記しておきたい。

その息子が諸葛瞻である。
臣下とはいえ、すでに別格である。
諸葛瞻が7歳のときに、父諸葛亮は五丈原にて陣没した。


諸葛瞻は、244年に漢皇帝劉禅の娘を娶っている。
17歳の時だ。このときから、多分官途についたのであろう。


蒋琬が病に伏し、
243年には、費禕が大将軍・録尚書事となっている。

北伐反対派の費禕ら益州閥が勢力を伸長、
蒋琬が引きこもることで荊州閥は停滞する。

蒋琬は246年に死去。
北伐推進派として姜維が247年費禕の次席として、
録尚書事に就く。

姜維は涼州出身である。

北伐を推進しない費禕を姜維は
253年に暗殺する。

その後姜維は5年連続で北伐を行う。

258年に姜維と同じく北伐推進派の尚書令陳祗が死去することで、
政治権力のバランスが変わる。

陳祗後任の尚書令は、
荊州閥の董厥であった。
彼は北伐に反対した。

姜維は北伐ができなくなった。
成都に帰還する。

姜維は、様々な手法を持って、
北伐推進の輿論を喚起しようとしたが、
うまく行かなかった。

姜維は258年から262年まで4年以上、成都で粘った。

姜維は北伐を強行したかったはずだ。
姜維当人の202ねんの生まれで、262年にはもう60歳だ。
動けるうちにやっておきたい、そういう年齢になっている。

最後に姜維は成都を出て、魏国境付近の沓中に行っている。
そのきっかけは、黄皓との諍いだ。

姜維は宦官の黄皓が政治に容喙(ようかい。口出しの意味)している
として漢皇帝に弾劾した。誅殺すら進言したと言われている。

漢皇帝は、姜維の黄皓弾劾に対して、
黄皓自身を姜維に謝罪に行かせている。

漢皇帝に対してこの事績を持って、
暗愚だと判断する向きも強い。

しかし、黄皓が漢皇帝の寵臣であったとしたら、
より一層際立つことがある、
それは漢皇帝は姜維に気を使っているということだ。

姜維に謝りなさい、と自分のお気に入りをたしなめて、
実際に謝罪させているのだ。

確かに姜維はこれで、
危険を感じ、成都を離れる。
しかし、漢皇帝からすれば、
黄皓に謝罪をさせれば、
この対立、というより漢皇帝からすれば変な誤解は解けると考えた。

そもそも黄皓が政治の表舞台になぜ出てきたか。

それは、
諸葛瞻らが、黄皓を引っ張り出したからだ。

荊州閥と益州閥が、北伐反対ということで、
諸葛瞻を担ぎ出したのはわかる。
彼らも派閥の確固たる領袖がいないなか、
姜維にしてやられているわけで、
諸葛瞻を頼りたいのはわからなくもない。

何と言っても、
諸葛丞相の息子である。

しかし、だからこそ自重すべきところなのである。

そもそも国策である北伐を推進したのは諸葛亮だ。
姜維も政治・軍事上の師匠は諸葛亮といってもいい。

にも関わらず、諸葛瞻は、派閥闘争に加わってしまった。

ましてや、
諸葛瞻は父諸葛亮と違い、
漢皇帝の婿である。
厳密な意味では外戚ではないが、
皇帝の姻族であることには変わりない。

外戚が政治に口を出して始めて、どうなったかは、
後漢の事例を見れば明らかだ。

それだけにとどまらず、
諸葛瞻は、宦官まで引っ張り出した。

上記の漢皇帝が姜維に配慮していることからもわかるが、
漢皇帝は姜維に絶対に北伐をさせたくないとは思っていない。

そんな漢皇帝の意思を覆すために、
諸葛瞻らは宦官黄皓を政治の表舞台に引っ張り出したのだ。

これで蜀漢の政治は混乱した。

漢皇帝の努力で、
見事に政治バランスを取っていた蜀漢。

それを諸葛瞻はぶち壊したのだ。

その結果が、姜維の逃亡。出奔と言ってもいい。
そして、魏による蜀漢討伐。

諸葛瞻が綿竹で鄧艾に玉砕したからといって、
その失策、罪は赦されるのであろうか。

※外戚・・・
皇帝もしくは、王の
母親又は妃の一族のことである。