歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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鍾会反乱の理由は、司馬昭の評価ミス

鍾会反乱の理由は、
司馬昭の評価ミスである。
 
●鄧艾は蜀漢討伐に反対であった。
●実は、鄧艾は初戦で作戦を失敗している。
●鄧艾は寒門、鍾会は名族である。
●鄧艾は、鍾会に配慮は全くしていない。
●鍾会は、10万の軍勢で、軍監衛瓘が従軍している。
鄧艾は、隴右の軍勢3万。どちらが本隊なのかは明確である。
●序列のややこしさ
●にもかかわらず司馬昭は浮かれて、自分だけ晋公・相国。九錫を受けた。

鍾会はこれで逆上した。つまり、キレたのである。


鍾会は蜀漢討伐後に反乱を起こす。
 
これは何故なのか。
それを明確に記すものはない。
 
あまりにも絶好のタイミングすぎて、
もともと反乱を予定・計画していたように思える。
 
始めてこの史実を知った人なら誰もがまずは
そう思うのではないか。
 
野心があった。
司馬昭にそもそも恨みがあった。
 
そう考える人が多いと思う。
 
そもそも鍾会の反乱は計画的なのか。
 
何故鍾会は反乱を起こしたのか。
 
鍾会は計画的に反乱を起こしたのではない、
鍾会は司馬昭の評価ミスがきっかけとなって反乱を起こしたと
私は主張する。
 
鍾会が反乱を起こそうと思ったきっかけは、
蜀漢討伐の褒賞が、
鍾会が司徒、鄧艾が太尉であったことだ。
 
同格の三公である。
 
確かに鄧艾の奇襲が蜀漢討伐の成功をもたらした。
 
しかし、元々司馬昭が蜀漢討伐を企図した時、
賛成者は鍾会のみだった。
鍾会が事実上計画を立案した。
もしかしたら、鍾会の献言があって、司馬昭は蜀漢討伐を思い立った可能性すらある。
 
にもかかわらず、
鍾会が鄧艾と同格の三公では不満に思うのは、
全く不思議ではない。
 
●鄧艾は蜀漢討伐に反対していた。
 
蜀漢に対して、良い戦績を残していた、
鄧艾は反対していた。
鄧艾は、蜀漢はまだまだ勢いもあり、討伐するのは早いと。
それを、司馬昭は、わざわざ司馬昭自身の腹心である、師簒を、
鄧艾配下の司馬に転任させて、説得させたほどだ。
 
鄧艾は、都督隴右諸軍事で、隴の軍権を持っていた。
隴の統治も順調で、何よりも姜維に強いことは大きかった。
当然蜀漢討伐に関して、鄧艾を動かすことは不可欠であった。
司馬昭は、自身の腹心を転任させてまで鄧艾を説得した。
当然、師簒は降格のようなものなので嫌がったであろう。
司馬昭が師簒を説得しなければ、転任はあり得ない。
 
司馬昭はそこまでしたわけである。
 
そうしてようやく鄧艾は、蜀漢討伐に賛成することになった。
 
●鄧艾は、蜀漢討伐の前、鍾会の配下であった。
 
鍾会は、蜀漢討伐を開始する前、
鄧艾の上席なのである。
 
鍾会は、司馬望に代わり、
都督雍涼州諸軍事となっていた。
 
鄧艾は、都督隴右諸軍事である。
 
当然、涼州には、隴右が含まれる。
元々は、都督雍涼州諸軍事の権限には、
隴右の軍権も含まれていたが、
鄧艾の功績等に配慮して、分権されていた。
 
当然、都督雍涼州諸軍事からの分権されたポジションなので、
都督隴右諸軍事は下位の扱いとなる。
 
実際は、
隴右の軍権は鄧艾が動かせるというものである。
鍾会とパラレル、全く別個で動けるものなので、
バラバラの扱いのように見えるが、
微妙な力関係であることは留意したい。
 
にもかかわらず、
蜀漢討伐の褒賞は、
鍾会・鄧艾が同格の三公である。
 
●鍾会は、実は常に鄧艾の後方支援を行っている。
これは、あまり注目されない事実だが、
実は鍾会に焦点を当てると、常に鄧艾の行動を支援している形になる。
 
フェーズが何個かある。
 
① 鄧艾・諸葛緒は作戦を失敗したが、鍾会は漢中を制圧した。 

鄧艾は、姜維を沓中から撤退させた。
姜維の搦手であった諸葛緒は、姜維にうまく巻かれてしまった。
諸葛緒は姜維を捕捉できなかった。
 
姜維は漢中・関城方面に向かおうとした。
しかし、鍾会が、迅速に漢中・関城方面を制圧していたので、
姜維は、漢中・関城方面には、向かえなかった。
結果、剣閣に入ることになる。
 
10万の軍勢を率いて、蜀漢討伐に向かった鍾会の目標は
漢中であった。
鄧艾たちが、蜀漢で最も手ごわい姜維を引きつけている間に、
漢中を押さえてしまうこと。これこそが、
今回の作戦である。
 
鍾会本隊は、駱谷道、
胡列の別動隊は、褒斜道を
それぞれ使って、10万の大軍を早急に漢中盆地に入れようとした。
 
鄧艾達は姜維を殲滅するよりも、まずは時間稼ぎが優先事項だ。
 
鍾会本隊が漢中制圧を急ぐことが重要だからである。
鍾会はとにかく急いだ。
そう考えると、ひとつのエピソードの背景が分かる。
許緒の子許儀が、鍾会本隊に従軍。道の整備を担当していたが、
鍾会が橋を渡るときに、鍾会の馬が足を取られてしまった。
鍾会は激怒して、許儀を処刑するという話だ。
周囲の反対をよそに鍾会は極刑で対処したという話だ。
事実は、鍾会は漢中に急行していたわけであり、
街道整備不良などに構っている余裕はなかった。
それを妨げたのは許儀である。鍾会が激怒するのも致し方なかった。
なお、この鍾会本隊で処刑の権限があるのは、
衛瓘(エイカン)である。衛瓘が節を貸与されているので、
実は鍾会に軍法決裁権はない。許儀の処刑が不当であれば、
衛瓘が拒否すればよい。そうではなかった。鍾会の対処は正当であったのである。
 
話を先に進める。
鍾会は漢中に侵入する。
蜀漢軍は、
楽城と漢城にそれぞれ5000の兵が籠城していた。
鍾会はそれらに目もくれず、城を包囲するだけで先に進む。
定軍山にある諸葛亮の墓を祀る。
鍾会は冷静に制圧後の統治を既に考えている。
蜀漢に人気のある諸葛亮を祀ることで民を慰撫している。

胡烈を先発させて、漢中盆地の西の入口に位置する、
関城の制圧を急ぐ。
ここを制圧すれば蜀から漢中には入れなくなる。
また、北の武都郡へのアクセスも遮断できる。
関城は蜀漢領を分断できる要地なのである。
 
関城の守将の一人蒋舒が蜀漢を裏切ったこともあり、
早々に関城を陥落させた。
 
263年の9月に鍾会本隊は長安を出発したが、
9月一杯で漢中を制圧したのである。
 
ひと月足らずの電撃戦であった。
 
鄧艾・諸葛緒は、姜維を捕捉できなかったが、
鍾会は電撃戦で漢中を制圧した。
 
鄧艾らに劣ることは全くない、
むしろ鍾会は見事な電撃戦を成し遂げたのである。
 
② 鄧艾が綿竹まで侵入できたのは、鍾会が姜維を引きつけていたから。

姜維は剣閣に入った。
姜維が何故剣閣に入ることができたかと言えば、
諸葛緒が姜維を取り逃したからである。
 
姜維の撒き方がうまかったとはいえ、失敗は失敗である。
 
ここで、鍾会が
諸葛緒の軍勢を取り上げたという背景が浮かび上がってくる。
 
諸葛緒は作戦ミスをしたわけである。
 
最早姜維には逃げられた。
しかし漢中は制圧できた。
 
わざわざ、諸葛緒に別部隊を与える必要はなくなった。
 
それで鍾会は諸葛緒から軍勢を取り上げたのである。
雍州刺史の諸葛緒は、都督雍涼州諸軍事の鍾会の下であるので、
鍾会には諸葛緒の軍権を奪う権限はある。
ただ、惰弱で戦えないとして、檻車(おりのくるま)に入れて洛陽に護送させるのは
やり過ぎだが。
 
なお、姜維に関しては、
鄧艾が姜維を攻撃し、諸葛緒が搦手として捕捉するという作戦だ。
諸葛緒は元々鄧艾配下であったときもある。
序列は明確で鄧艾、その下が諸葛緒である。
鄧艾が姜維足止め作戦の責任者である。
諸葛緒の責任ではあるが、作戦の総責任者は鄧艾なのである。
姜維を取り逃したのは、鄧艾という見方は当然できるので、
鍾会サイドからすれば謙虚さがほしいところだ。
ここにも火種はある。
 
 
いずれにしても、
姜維を取り逃したおかげで、
鍾会は、剣閣で足止めされた。
先に進めなくなったのである。
 
鄧艾・諸葛緒が姜維を取り逃していなければ、
鍾会は蜀になだれ込むことができた。
鍾会は、たった1か月で漢中を制圧している。
姜維がいなければ、蜀を迅速に制圧できる可能性もあった。
 
そのチャンスを鄧艾・諸葛緒が潰したことになる。
 
 
 ③さて、鍾会は剣閣にて足止めされたが、
鄧艾は、
姜維を取り逃がしたことにより、作戦から宙に浮いた。

本来は、鄧艾と諸葛緒で姜維を挟み撃ちし、
姜維を撃滅するのが作戦の目的であった。

姜維を逃した今となっては、
鄧艾の作戦は失敗である。

鍾会本隊は、剣閣に足止めされ、蜀に入れないでいる。

私は、ここで鄧艾の方が鍾会に反発を感じたのだと考える。

一般的なイメージは、蜀漢討伐という快挙を鍾会が鄧艾に掻っ攫われて、
憤慨して、鍾会が鄧艾を更迭させたという印象だ。

しかし、鍾会はここで
鄧艾を放置する。放ったらかしなのである。
無視といってもいい。
鍾会は鄧艾の与党といって良い、諸葛緒を更迭した。
軍勢も奪い取った。
鍾会は諸葛緒に対してそれを行う権限はある。

鄧艾からすれば、鍾会が自身を攻撃していると見えた。
事実、
鄧艾は作戦を失敗した。
与党諸葛緒を更迭され、軍勢も鍾会に奪われた。
鍾会からは作戦変更の指示もない。

本来なら、序列として、鄧艾が鍾会に、
どうしたらよいのでしょうか、と伺いを立てる立場である。

しかし、鄧艾はしなかった。

理由は二つあると私は考える。

①軍権のややこしさ
鄧艾は都督隴右諸軍事である。
鍾会は都督雍涼州諸軍事である。

鄧艾の都督隴右諸軍事は、鄧艾に特に与えられたものである。
元々は、当然都督雍涼州諸軍事の権限内である。

派生したものなので、普通に考えて、
都督隴右諸軍事は、都督雍涼州諸軍事の下である。
しかし、それぞれの軍権を持つというポジションなので、
その意味では並列であった。
鄧艾は、隴右の軍勢を独自に動かせるわけである。
そのため、鍾会に今後の動きに関して伺いを立てるのは
おかしいとも言える。

それで鄧艾は上奏、実態は司馬昭に対してだと思われるが、
間道を通って、蜀を突きましょうと建言する。

②鍾会に対する反発
鄧艾は都督隴右諸軍事として、
都督雍涼州諸軍事の司馬望とともに、蜀漢に当たってきた。

司馬望は、司馬氏長老の司馬孚の息子で、
司馬八達長男の司馬朗家の後継者である。
司馬昭の従兄に当たる。

鄧艾は司馬懿に引き立てられ、司馬師にも重用されていた。
司馬氏の与党である。
司馬望にも忠実であったと思われる。
鄧艾は、姜維の第五次北伐の際に司馬望と連携して、姜維を
撤退させている。

しかし、司馬望はこの蜀漢討伐に当たり、蜀漢討伐に反対なので、鍾会と交代した。

鍾会は新任である。
当時38歳。
もちろん司馬氏ではない。
鍾会は、自分に非常に自信のあるタイプで、
人にへりくだるタイプではない。

魏の元勲鍾繇の末子であり、
名族意識の高まる、この魏末の時代、
鍾会も多分に漏れず、といったところであろう。

一方、
鄧艾は全くの寒門。出自もあやふやな人物だ。
その中で、当時寒門随一の出世頭である。
70歳手前だったと言われる。

鄧艾が、自分が例えば鍾会のように血筋に恵まれていれば、
最も出世できたと考えるのはむしろ自然なことだろう。

38歳で、一軍を率いたこともない、
鍾会という小僧の下風に立つことを好ましいと思うはずがない。



この二つの理由で、鄧艾は鍾会を上席とは認めなかった。

鍾会も鄧艾を尊重しなかった。

そこで、鄧艾は司馬昭に建言し、
道無き道を行くことの許可を求める。

姜維捕捉作戦の挽回でもある。

司馬昭がそれを認めたのか認めなかったのかはわからない。

いずれにしても、鄧艾は、
間道を進み、
江油に進出、そのまま南下して、涪城に辿り着いた。
涪城を守っていた、諸葛瞻が何故か綿竹に撤退したためだ。

鄧艾の後背地にある剣閣には、姜維が立てこもり、
その向こう側では鍾会が立ち往生している。

その状態で、
鄧艾は、後ろを無視し、
諸葛瞻のいる綿竹に進撃する。

これで、鄧艾が鍾会と連携していないのがわかる。

鄧艾は、綿竹に籠る諸葛瞻に突撃する。
しかし、諸葛瞻の守りが堅く、攻略の難しさを、
息子の鄧忠、司馬の師簒(鄧艾に蜀漢討伐賛成を説得した人物)が
申し立てる。
鄧艾は、彼らも二人に落城させられなければ、
処刑すると強引に突撃を求める。

結果として、
諸葛瞻を敗死させ、綿竹を陥落させた。
鄧艾は、討ち死にした蜀兵をもって、京観を作る。
多数の敵兵の死体で山を作ることだ。

蜀漢に対する威圧もあったであろう。

また、鄧艾は一種の興奮状態でもあったのではないか。

ここで、姜維は諸葛瞻の敗死を知り、
剣閣を捨てて、撤退する。

ということは、その向こうにいた鍾会は姜維を引きつけていたわけである。

姜維が鍾会を放っておいて、
諸葛瞻救援に向かったら、
鄧艾は姜維により殺されていたかもしれない。
挟み撃ちにあっていたかもしれないのだ。

鄧艾は雒城まで進出し、成都を窺う。
肝心の姜維は、迂回して成都に入ろうとする。
鍾会は、涪城まで進出。
胡烈が綿竹に進出、
それぞれ南にいるとの情報がある姜維を捕捉しようと軍事行動を起こす。

その間、鄧艾軍は成都に迫り、
鄧艾は漢皇帝の降伏を受ける。


ということである。

鍾会は蜀漢討伐の序盤戦、
鄧艾が作戦失敗したにも関わらず、
自力で作戦を成功させた。

鄧艾らのせいで、鍾会は蜀に入ることができなかった。

それを鄧艾が奇策に出て、
たまたま上手くいった。

鍾会は現状を冷静に分析して、鄧艾のフォローに回る。
蜀漢で最も危険な姜維に対して注意を怠らずに、
常に捕捉しようと軍を進める。

当初の作戦と、鍾会と鄧艾の役割が逆になった形だ。

そして、鄧艾は漢皇帝の降伏を受けるという名誉を受けた。


これだけでも、鍾会からすれば腹立たしい。

成都に入城した鄧艾は、
放伐を成功させた王者の如く、
漢皇帝劉禅を勝手に驃騎将軍に任じたり、
師簒を益州刺史にして論功行
賞するなど、
専断が目立つようになる。
総大将だったかの如く、このまま呉を討伐することさえ、
司馬昭に進言している。

鍾会の立場に立ってみると、
何とも不愉快な事象だ。

鄧艾は作戦を失敗しておきながら、
ゲリラ戦、奇襲戦で蜀漢に打撃を与えたのは確かに
事実だ。

しかし、それは鍾会が姜維を引きつけていたからこそだ。

そもそも、蜀漢討伐の全体の作戦は鍾会が企画したもの。
始めに建言した、俗っぽく言うと言い出しっぺは鍾会なのだ。
 
そもそも、鄧艾は全く鍾会を尊重していない。
鍾会を無視しているかのごとくである。

ここまでならまだよかったのだろう。

これに加えてさらに、
蜀漢討伐成功に浮かれた司馬昭は致命的なミスをする。
こういった事情を知ってか知らずか、
今回の快挙の褒賞として、
鍾会を司徒、鄧艾を太尉とするのである。

同格の三公である。
確かに鄧艾の奇襲が蜀漢討伐の成功をもたらした。

しかし、鄧艾は元々蜀漢討伐に反対していた。
初戦において、鄧艾は姜維捕捉作戦を失敗している。

全体の計画を立案したのは、鍾会なのだ。

何故鄧艾が自身と同じ功績になるのか、と。




 
鍾会は腹に据えかねた。
いや、鍾会はその程度で収まる人間ではない。 
あの嵆康を讒言して処刑まで持っていった人物だ。
鍾会は
怒り心頭に発する、
恨みは骨髄にまで至った。
 
鍾会はこれで暴発する。
もちろん、
司馬昭にも恨みは及んだ。
 
唯一蜀漢討伐に賛成し、
作戦をした自身を無下にした。
 
鍾会の立場から考えれば
充分にそのように考えられる事態だ。
 
鄧艾を罠に嵌めて、更迭、その隙に蜀漢で独立する。
鍾会はそう考え、実行に移した。

司馬昭は失敗した。
そもそも、力はあるが、
どちらかというと、人の好い、
少し抜けたところが魅力の司馬昭だ。
だからこそ、皆が仕えやすく、禅譲させた方が、
自分たちにとってメリットがあると思わせるのだが、。
 
こういうことを、
父や兄と違ってやってしまうのが、
長所であり、短所である。
司馬昭は詰めを誤った。

司馬昭は、多分浮かれて詰めを誤ったのだ。

結局のところ、司馬昭がせめて長安まで始めから
総大将として出ていればこのようなことにはならなかった。

 
※衛瓘(エイカン)・・・
節を付与されて、蜀漢討伐に従軍。
監軍として、鍾会に随行。
やはり司馬昭は自身での遠征を意図していなかった。
蜀漢が早々に滅亡してしまったので、
司馬昭が親征しようとしたのかどうかなのかがわかりにくい。
 
しかし、自身が数ヶ月後に申請するつもりなら、
節は衛瓘に与えない。
司馬昭自身が軍法執行の最上位になるからだ。

司馬昭は親征すべきだった。
しかし、成功するとは思わなかったので、
親征しなかった。

司馬昭の見通しが甘かったのである。