歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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費禕の主張は、決断しないことを決めること~現実的な政治家としてのスタンス~

費禕は非常に器用な人物である。

不真面目で、サボっているように見える、そんな人物だ。

そういう人物は、生真面目な人間からはひどく嫌われる。

 

二つの側面から、費禕を考えたいと思う。

 

①尚書令で漢皇帝の高い信頼を得ていた董允に関する

エピソードである。

 

董允の前任は費禕であった。

 

費禕は宴会・遊興・博打が大好きで、

執務の合間によく行っていた。

 

後任の董允がこれを真似ようとすると、

数日にして仕事が滞った。

 

董允は、自身の能力は費禕に及ばない。

一日中仕事をしても全く追いつかないと述べた。

 

董允が費禕を褒める美談である。

だが、角度を変えると違った視点も見えてくる。

 

すなわち、董允は費禕の真似ができる、もしくは出来るかもしれないと思っていたわけだ。

費禕は遊んでいるわけだし、

あのぐらいなら私でもできるだろうと。

 

蜀漢には四相という優れた四名臣として称えられているものがいる。

諸葛亮・蒋琬・費禕・董允である。

 

つまり董允ほど能力もある人物でも

費禕の真の実力は見抜けなかった。

 

董允は費禕の後任として業務を引き継いで気づいたが、

他は費禕の凄さを知り得なかった可能性が高い。

 

側から見たらサボっているように見える、

ただ遊んでいるように見える、

不真面目な人間に見える、

 

しかし実は実務を的確にこなしている、

というわけだ。

 

こういう人物は現代でもいる。

 

真面目に考え、行動している人間に嫌われる。

 

何故なら、真剣な人間には、

不真面目でただ器用に立ち回るだけにしか見えない人間は、

自分に対しての当て付けでしかない。

 

こういう人物は

一生懸命理想に生きる人からすごく嫌われる。

 

 

②費禕はのらりくらりかわすことが出来る。

 

費禕は北伐に反対した。

費禕を支持する益州人の主張もある。

費禕自身が諸葛亮に従軍して北伐を行なった結論でもある。

 

但し、費禕は徹底的に対立することはしない。

 

陳寿正史三国志では、

蒋琬は費禕と数年に渡って北伐を議論したとある。

蒋琬は北伐推進派であるので、

反対派であった費禕を説得しようとする。

 

蒋琬は尚書令である費禕が後方支援と兵站を担って

もらえないと安心して北伐ができない。

 

また上記の董允のエピソードから考えると、

費禕以上の人材は考えられなかったのだろう。

 

費禕は表立って反対をする人間ではなかったために、

蒋琬は時間をかける事になる。

 

私は費禕が北伐反対派と言い切るが、

費禕が反対派だとは明示してあるわけではない。

 

これも費禕をわかりにくくしている。

 

しかし、この後の漢皇帝の人事を見ればそれはよくわかる。

 

病に伏した蒋琬は涪城に下がり、

費禕が代わりに大将軍となる。243年のことだ。

合わせて録尚書事に就く。

 

蒋琬と同格である。

 

蒋琬が後方に下がったことを見て、

244年に魏の曹爽が10万の軍勢を率いて漢中を

攻めてきた。

(興勢の役)

 

費禕は見事に曹爽を撃退する。

仕事はきっちりやる男である。

 

蜀漢内は俄然士気が高まる。

諸葛丞相以来の北伐かと国論は高まる。

当然である。

 

しかし、費禕は動かなかった。

 

そうこうしているうちに、

246年に蒋琬が死去する。

 

費禕は、単独の録尚書事となった。

やはり費禕は動くそぶりがない。

 

董允すら費禕の本性がわからなかったほどだ。

誰も費禕とは何者か、わからなかったのだろう。

 

サボってる、遊んでる、博打をしている。

 

ここ蜀漢は漢なのだ。

 

人材は孝廉が尊ばれる。

親に孝行し、清廉潔白な人物であれ、ということだ。

 

費禕がそれから外れていることは間違いない。

 

費禕の本性がわからないまま、

漢皇帝は247年に姜維を録尚書事に昇進させる。

 

姜維はよく知られているように、

諸葛亮の薫陶を受けた人物で、武人である。

 

諸葛亮の遺志を真面目に後継したいと思っていた。

 

武人である。

姜維は武人としては大変優れている。

また姜維は策を弄して戦うタイプではなかった。

 

ということは、姜維は真面目、愚直である。

 

このような費禕の、のらりくらりとした

スタイルを許せるはずがなかった。

 

逆を返せば、

費禕は姜維以外ならのらりくらりと

交わせたのだ。

 

北伐は難しい、けれどもそれを言い切ってしまうのは、

蜀漢自体の存在意義にもつながる。

 

それでのらりくらりと先延ばしにしていたのではないか。

 

北伐に代わる策がそう簡単に見つかるわけではない。

 

成熟した、老練な政治家としての判断、対応だと

私は思う。

 

 

しかし、それに勝るとも劣らないほど、

姜維の北伐にかける信念は強かった。

 

それで、費禕は姜維と激論となり、

費禕はこう主張する。

 

あの諸葛丞相でもできなかったことを、

我ら凡人ができるわけがない、と。

 

諸葛亮に師事し薫陶を受けた姜維だからこそ、

響く言葉だ。

 

費禕が主張を初めてはっきりさせた時だったのではないか。

 

 

遊んでいるようにしか見えない、

蜀漢の執政費禕。

 

北伐にも真面目に取り組む雰囲気もない。

 

国論は盛り上がるが、

それに左右されることもない。

 

そんな費禕に姜維は噛み付いた。

 

費禕は248年に漢中に駐屯するが、

何もしない。

 

姜維は248年と249年に隴を攻撃するが、

費禕は姜維に大規模な軍勢を持たせることを

許可しない。

 

費禕は特に軍事行動を起こさないまま、

一旦成都に戻る。

 

漢皇帝もこのままではまずいと思ったのか、

252年に大将軍府の開府を許可する。

 

それでも費禕は重い腰を上げなかった。

 

そうして、費禕は姜維に暗殺された。

 

 

費禕ののらりくらりは理解されなかった。

 

諸葛亮以来真面目な国家蜀漢。

蒋琬もそれを継いでいた。

姜維ももちろんそうだった。

 

費禕のスタイルは、

そうしたメンツの中理解されなかった。

 

費禕ののらりくらりは、

姜維には理解されなかったのは当然だが、

北伐をただ嫌うだけの人間には、そのやり方は象徴となった。

 

ただの事なかれ主義に陥る。

 

費禕の罪深さは、ではどうするのかを提示しなかったまま

死んでしまったことだ。

 

凡人には理解できまい。

このように、何も考えていない素振りの中、

すべきことはきちんと押さえるなど、

本来能力が高い人物でないとできることではない。

 

姜維の費禕暗殺は、

蜀漢内に決定的な政治対立を生んだ。

 

姜維の強硬な北伐推進と、

事なかれ主義的な北伐反対となった。

 

この決定的な対立をなんとか宥和させようとしていた

唯一の人物は、漢皇帝のみであったことは最後に記しておきたい。