司馬昭にとって、
蜀漢討伐の成果は漢中制圧までで十分であった。
捷報が続き晋公に推戴される。
とあるが、
これは漢中制圧の功績だ。
やはりこの視点から見ても、
蜀漢討伐に司馬昭が親征しようとしていたとは思えない。
漢中制圧で御の字なのだ。
これ以上を元々求めていたら、
ここで叙爵を受けることはない。
まだ結果が見えていないのだから。
とはいえ、
漢中制圧は大功績である。
二つの点で大きい。
一つは政治的意義、もう一つは軍事的意義である。
何と言っても、
漢中は、漢王朝発祥の地である。
前漢高祖劉邦が王になった地、
それに倣って劉備も漢中で漢中王に推戴されている。
それを奪い取ったのは、政治的に見て非常に大きい意義を持つ。
蜀漢からすれば、創業の地を失ったことになる。
士気の低下は免れない。
また、
漢中は、軍事上の要地である。
ここ漢中は、
関中・渭水盆地と蜀の間にあり、
ここ漢中を通らないと両地域に行くことができない。
魏にとっては、
ここを蜀漢に押さえられているため、
度重なる軍事的脅威を受け続けていた。
蜀漢からすれば、
漢中がないと魏へのフレキシブルな軍事行動が
できなくなる。
蜀は守るには良いが、
攻めるには難しい地形だ。
蜀から他地域に出るルートに限りがあるからだ。
魏がそれらルートを全て封鎖してしまえば、
蜀漢は手も足も出なくなってしまう。
ということで、
263年の10月23日、
司馬昭は、晋公封建、相国昇進、九錫賦与を
受けた。(引用:西晋の武帝司馬炎 福原哲郎氏)
5回辞退した、この三点セットを司馬昭は受けたのである。
まだ蜀漢内には鍾会らの軍勢がいる最中の行為だ。
ドラマチックな展開を期待する我々としては、
「まだ陛下の軍勢は蜀漢内で死力を尽くして蜀賊と戦っている。
戦いの帰趨が見えない中、私だけがどうして栄誉を賜ることができようか」
と司馬昭に言って欲しいところだ。
しかし司馬昭は言わなかった。そして受けた。
これでわかるのが二つある。
①蜀漢討伐は、やはり禅譲への道を開くための手段だったのだ。
この三点セットの中で、九錫が禅譲への道を切り開く。
王莽、曹操は禅譲への道を切り開いたが、
九錫の特典だけが特別だった。
②漢中を陥落させただけで十分なのであった。
大変残念ながら、司馬昭のゴールは漢中の陥落であった。
これで十分なのである。
司馬師以来、大将軍・録尚書事のまま、
司馬昭もそれを継承した。
正確には、司馬師は252年の正月、
大将軍・侍中・持節・都督中外諸軍事・録尚書事に昇進、
司馬昭もそれを受け、11年強である。
ようやく、次の段階に進むことができた。
戦功に乏しかった司馬昭はこれで、
漢中陥落という輝かしいこうせきを得ることができた。
蜀漢皇帝劉禅の降伏は、11月なのである。
戦いは魏の完勝で終わるのである。
1ヶ月足らずで全てが終わるのである。
それをわざわざ10月の下旬に行う。
漢中までで十分だと考えていた証拠だ。
司馬昭は間違いなく浮かれていた。
剣閣で立ち往生の鍾会も、
間道を進もうという鄧艾も、
忘れていた。
彼らは最終的に独自に判断して行動している。
鄧艾は司馬昭に建言しているのにそれを待っている様子もない。
鄧艾は諸葛緒も共に間道を進もうとしていたが、
詔勅と違うので断っている。
そして、鍾会に合流したら、
軍勢を取り上げられている。
いずれも司馬昭の命令の影も形もない。
漢中掌握で念願の
晋公、相国、九錫を受けることができる。
司馬昭は浮かれていたのである。