歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

姜維が駐屯した沓中とは何処にあるのか。

~姜維駐屯沓中はかなり広い範囲を指す~

「中国歴史地図集」にて、沓中は

白龍江沿いの中流辺りに記載されている。

 

沓中は調べてみると、

現在の甘粛省甘南チベット族自治州迭部県(テウォケン)に当たるという。

 

何かしっくりこない。

 

峡谷の合間にわざわざ駐屯する理由が見つからない。

 

最低でも二万の軍勢を引き連れていった姜維。

最大でも三万だ。

 

三万といえば、現代の日本でも市に昇格できる。

一つの都市である。

 

それがこのような峡谷に駐屯するなど

常識的に考えられるのだろうか。

 

この迭部県というのは上を迭山、南を岷山山脈に

囲まれ、その合間を白龍江という河が流れている。

 

非常に険しい山あいの土地だ。

迭部からみて岷山山脈を南に越えた先に、

九寨溝がある。観光名所として有名でジャイアントパンダの保護区がある、

あの九寨溝だ。非常に険しい、山奥だということが想像できる。

 

迭部に話を戻すと、

現代中国でも、このエリアは、洪水が起きるエリアである。

ダムなども多い。

 

現代中国で、近代的な治水が行われても

洪水は起きている。

 

ということは、1800年前のこの当時、

洪水の可能性が当然高いことは周辺住民の

口伝でわかっていたはずだ。

 

洪水で軍勢が流されてしまったら、

屯田どころではない。

 

屯田しても兵士は流されるは、耕地も台無しになるは、何の意味もない。

 

また軍事戦略上、

特に姜維の狙っていた隴に侵入しやすいわけでもない。

これらの点から、

私は、姜維が駐屯した沓中は、現代の迭部ではないと思っている。

 

では何処なのか。

沓中の場所

(引用:中国歴史地図集 著者譚其驤主編.  中国地図出版社)


上記である。

 

ここは、実は

成都から北に水に行き、途中から山あいを連ねて北方に進んで

行くとここに辿り着く場所だ。

 

蜀の桟道が表街道なら、

こちらは裏街道である。

 

この水(ぶんすい)というのは今の岷江である。

 

岷江は二股であり、

成都の南で合流し、その後長江に流れる。

その岷江の左の流路を遡るところにあるのが、

汶山郡である。

なお、この奥深く、岷江の上流まで行くと、

東側にあるのが九寨溝である。今では空港もある。

繰り返しになるが、この九寨溝辺りから、西に進路を取ると、

チベット族の勢力圏と言って良いエリアに出る。そこを北上すると、

沓中の西まで辿り着く。

 

この汶山郡は羌族の多いエリアである。

 

姜維は、243年に費禕が大将軍についてからは、

このエリアの異民族鎮圧に力を注ぐことになった。

同年243年に姜維は蒋琬の後押しで涼州刺史となっており、

北伐の一環として取り組むことになった。

 

姜維は諸葛亮の死後、蒋琬に属して軍事を司っていた。

蒋琬は北伐を企図していたが、

国内の反対で実行に移すことができなかった。

そうこうしているうちに、蒋琬は病に伏し、涪城に下がる。

 

北伐反対派の費禕の権力が強化され、

姜維は蒋琬が事実上政治の表舞台にいなくなったこともあり

手持ち無沙汰となった。

 

そこで、姜維が申し出たか、費禕が与えたかはわからないが、

上記を汶山郡エリアの鎮撫という役割が姜維に与えられた。

 

姜維はこの役割を見事に果たした。

 

羌族を手なずけることに成功した姜維は、

247年に衛将軍・録尚書事に昇進、

涼州刺史と合わせて、蜀漢の事実上のNo.2となる。

 

247年からは4年連続250年まで、

今度は陰平郡から北に隴方面を攻撃することになる、

 

こうして、姜維は、異民族の羌族・氐族の

支援を受けながら、

諸葛亮が使わなかったルートを使って、

姜維なりの北伐を敢行するのである。

 

蜀漢の西部開拓とも言えるこの姜維の事業は、

ある程度成功した。

 

陰平郡ルートと汶水郡ルートの

両方が合流するので地点、それが沓中である。

 

このエリアこそが姜維が自分で創り上げた勢力圏であり、

姜維の事実上の本拠地であった。

 

黄皓との諍いで姜維は逃亡したが、

やはり姜維が最も安全だと思う場所に逃げたのである。

 

今の迭部にも拠点はあったのかもしれない。

何故なら、姜維が成都に急行するためには、

水路を使った方がよく、

この迭部には拠点を置けそうな平野部があるためだ。

 

それで、沓中は迭部とされたのではないか。

 

つまり、沓中はかなり広いエリアを差していたのだと思われる。

後年は吐蕃の勢力圏となり、

誰も行ったこともない土地だったからこのような大雑把な扱いをされた。