歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

鄧艾浮かれる。鍾会恨み妬む。衛瓘悪運強し。

鄧艾が263年11月に蜀漢を滅亡させた。

 

司馬昭は263年10月22日の魏皇帝の詔勅により、

晋公・相国・九錫を受けていた。

 

その後の快挙である。

 

漢皇帝劉禅の降伏は、263年の11月とされるが、

姜維の降伏は12月なので、

少なくとも漢皇帝の降伏は、11月の後半であったと思われる。

 

鄧艾は漢皇帝の降伏を受け、舞い上がる。

これは、放伐を成功させたような歴史的快挙なのだ。

やむを得ない部分もある。

しかし、鄧艾は、間違いなく鍾会の恨みをかった。

鍾会らの後方支援に感謝せず、

成都にて王者の如く振る舞う。

 

劉禅には驃騎将軍の位を与える。

諸官を自身の属官とし、

叛意があるのではないかと

疑わせるに足るものであった。

 

このとき、

鍾会は涪城に留まっていた。

軍監の衛瓘とともにあった。

 

姜維は12月に涪城の鍾会のもとに赴き、

劉禅の指示通りに降伏した。姜維は成都の鄧艾ではなく、

涪城の鍾会のところに行ったのである。

 

鍾会は12月一杯涪城に留まっていた。

成都にて進駐しなかった。

鄧艾の振る舞いを見て、

はらわたが煮えくり変えるような思いであっただろう。

鍾会は、才能はもちろんあるが、嵆康とのやり取りからわかるように、

ナイーブな部分がある。

デリケートな心を持つ鍾会は、この鄧艾の振る舞いは大変腹が立っただろう。

 

鍾会は鄧艾を弾劾することに決めた。

 

鄧艾の専断は当然弾劾に足るが、

ただ、それだけでは、司馬昭の心は動かなかった。

そもそも、司馬昭は寛恕の政治を心がけている。

司馬師以来名族を始めとした貴賓層には対処が甘い。

 

司馬昭は、鍾会の弾劾を気にかけず、

12月下旬に

鄧艾を太尉、鍾会を司徒とするという詔勅を出した。(出させた)

 

これで、

鍾会は司馬昭が自身の建言を取り上げないことを把握した。

鍾会はそもそも鄧艾が自身を蔑ろ(ないがしろ)にしていることを憤慨しているのに、司馬昭はそれも理解しない。

それも褒賞昇進は、鍾会自身が三公の司徒なのはわかるが、

鄧艾が同格の三公・太尉なのは、全く理解できない。

 

鄧艾に対する恨みが司馬昭にも向かった瞬間だった。

 

鍾会は次のアクションを起こす。

鄧艾の司馬昭に対する進言の書面を改竄し、

司馬昭の鄧艾に対する疑心を煽った。

 

軍監の衛瓘もこれに加担した。

恨みがあってと言われるが、鄧艾が功績を独占しているからだろうか。

後に衛瓘は、鄧艾を陥れたことが発覚するのを恐れて、

鄧艾を殺させているが、この追加の改竄のことを指すと思われる。

 

鍾会の進言の結果として、

26411日、詔勅により、鄧艾は

檻車(囚人を入れる檻の車である)に入れて

洛陽へ護送すべしという命令が出た。

 

13日司馬昭は、魏皇帝元帝曹奐を奉じて、

長安に向かう。鄧艾が命令に服さなかった場合に備えてだ。

洛陽から長安までは、一月かかる。

合わせて、

長安に駐屯させていた、賈充を褒斜道経由で、漢中へ

向かわせた。

 

衛瓘は蜀漢討伐軍の軍監なので、衛瓘が涪城から成都に向かい、

鄧艾の捕縛を行う。

鍾会は、鄧艾が太尉に昇進した時点で、

反乱を決意していたので、

軍監の衛瓘が既に邪魔であった。

 

あわよくば、鄧艾が衛瓘を殺してくれないかと思って、

丸腰の衛瓘を鄧艾軍三万近い軍勢の中に放り込んだが、

衛瓘は機転を利かせて、鄧艾の逮捕に成功してしまった。

 

115日鍾会はようやく涪城から成都に移動する。

鍾会は姜維を引率している。

 

116日に、

263年の12月に亡くなった郭太后の遺詔として、

反司馬昭の兵を挙げることを宣言する。

 

しかし、3日後の1月18日、

胡烈が反抗し、

鍾会・姜維、蜀漢の太子が殺害される。

成都城内は混乱に陥るが、

鍾会の元から仮病を使って逃げていた、衛瓘が乱を収束させる。

 

衛瓘は悪運が強い。

 

264年の3月に劉禅は洛陽に入る。

264年の319日、司馬昭は、蜀漢討伐の成功を理由に、

晋王に昇る。前後は不明だが、

おそらく、劉禅が洛陽に着いてからの晋王昇進であろう。

それの方が、見た目が良い。