歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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劉禅は蜀漢正統論の犠牲者である。 =漢晋春秋「曹操=桓温」論が蜀漢正統論を生み出した=

劉禅が暗愚とされた逸話は、
「漢晋春秋」 東晋の習鑿歯著作が原点である。

司馬昭と劉禅の会話である。
劉禅のエピソードで、最も有名で、最も蜀漢ファンを落胆させる話である。

下記に引用する。
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(出典:正史三国志裴松之注 引用漢晋春秋)
司馬昭は蜀漢が滅ぼした後、洛陽にて
旧蜀漢皇帝劉禅以下蜀漢の旧臣を招いて宴席を開いた。
蜀の舞楽(音楽と舞)が流れると、
蜀漢の旧臣達が涙を流したが、
旧蜀漢皇帝劉禅は笑っていた。

それを見て、司馬昭は賈充に対して、
「人はここまで無情になれるものなのか。
諸葛亮が生きていたとしても、
これでは補佐しきれなかっただろう。
ましてや姜維では。」
と話す。
それに対して、
賈充は、
「こうでなければ殿下は蜀を併呑することはできなかったでしょう。」

そして、
司馬昭は劉禅に話しかける。
「蜀のことは思い出されませんか。」

劉禅は司馬昭の言葉に対し、
「ここは歌も踊りも酒も美味しいです。
どうして蜀を思い出しましょうか。」

劉禅の側にいた郤正は、劉禅に対して、
「あの様な質問をされたら、
先祖の墳墓は隴・蜀にありますので、
西に思って悲しまない日はありませんとお答えください」と
言った。

それを聞いた司馬昭は、同じ質問をしたところ、
劉禅は、郤正に言われた通りに答えた。

司馬昭は、
「これは郤正殿が言った事と全く同じですね。」
と劉禅は言われて、
「はい、仰る通りです。」
と答え、一同は大笑したという。

※この宴席は、
劉禅が魏に降伏し、安楽公に封じられた後である。
同じ月に司馬昭は晋王に昇っている。
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これが三国時代、三国志の顛末、「オチ」である。

現代に至るまで、大半の三国志関連の書物はこの「オチ」である。

これにショックを受けない読者はいないだろう。
私も12歳の時にこの「オチ」を知った時には、
大変落胆し、劉禅を恨んだものだ。
この読後感が三国志の魅力とも言えるが。

だからこそ、この劉禅のエピソードは、すっと心に響いてしまう。
何か納得感があるのである。
あれ程、名君・名臣が頑張ったのに何故蜀漢は、
魏、というより司馬懿の息子に滅ぼされてしまわなくてはならないのか。

ああ、劉禅のせいだ。

強い納得感を形成する。

しかし、何度か思い直すと、その洗脳が解け始める。
話がうますぎる。
そうしてようやく気づく。

これこそまさに、偉大なる、見事なスケープゴートである。


ここで、出典元や時代背景を考えてみる。

まず注釈を書いた裴松之は、南朝の宋文帝の勅により、
正史三国志に注釈を入れた。
そのスタイルは、異同問わず、関連するものは基本的に
注釈として入れるというものだった。

なので、問題は漢晋春秋となる。




漢晋春秋は、
曹操を、時の権力者桓温に見立てて、
婉曲的に桓温を批判するものである。

曹操=桓温
である。

このやり方は、岡田英弘氏の著作を読むとわかるが、
毛沢東に対しても行なっていたもので、
中国文明では伝統的なやり方のようだ。

この著作は、
蜀漢正統論を主張していると言われる。



但し、注意しなくてはいけないのは、
歴史書というのはあくまで文学の一つであるということ。
ある程度のノンフィクションは含まれるが、
著者の思想、スタンスにより、ノンフィクションが入ってくる。

例えば、
劉禅の降伏が263年11月というのは事実であろうが、
それが、譙周の進言を受けて劉禅が降伏したかどうかは、
最終的にはその場に居た者にしかわからない。
いや、場合によっては、劉禅が既に降伏を決めていて、
劉禅が根回しをして、元々北伐反対派であった譙周に
降伏を進める建言をしろと言ったというストーリーも
成り立ってしまう。

このように言ってしまうと元も子もないが、
これが歴史の真実の姿である。

この程度なら良いが、ましてや歴史書は、
政治的影響力を強く持つものが中にはある。

現代でも小説やドラマが社会的風潮を創造する側面があるのと
同じである。

この漢晋春秋の目的は、明らかに桓温の禅譲阻止である。
そのためには、
桓温は悪者で、東晋は正統だという政治的主張をする必要がある。

なお、桓温はいわゆる寒門の出身者、曹操と同じである。
東晋支持者は、名族が中心で、儒家思想を信奉している。


東晋は、元々魏から禅譲を受けた西晋の末裔というのが
正統の証である。

それは、陳寿の正史三国志に著されている。

それを漢晋春秋は覆す。
ストーリーを下記に記す。

西晋・東晋の祖は後漢の臣下であった。
曹操の辟召によるものだったが、これは事実ではある。

後に「渋々」曹操・曹丕の下につくことになった。
曹丕が後漢献帝から禅譲を受けたが、
これは簒奪である。つまり正統な行為ではない。

司馬懿は「渋々」魏に従っていた。

そうこうしているうちに、
魏の国運が落ちてくる。

司馬懿は、曹爽一派を滅ぼして、
魏の権力を握った。(249年正始政変)

佞人の曹氏一族を抑え切った。

その後は、司馬懿の息子司馬師・司馬昭が、
その権力を受け継ぐ。

司馬昭の時に、
自称漢と呼ぶ蜀を滅ぼした。
この蜀は、全く不完全な王朝で、後漢を継ぐ形ではあったが、
中華を支配しきれなかった。
特に劉禅は皇帝でありながらも、全く能力が不足していて、
漢を継ぐに相応しくなかった。

一方で魏は曹氏が排除されつつあり、
漢の臣であった司馬懿の息子司馬昭がその徳を高めており、
蜀を滅ぼすに至ったのである。

すなわち徳の足りない自称漢の蜀漢は、
司馬昭の徳の前にひれ伏したのであると。

この流れの中の、上記の司馬昭と劉禅の会話である。

当然劉禅はダメで、司馬昭は高い徳を持つ人間と書く。
書くほかに方法がない。

漢晋春秋成立の時でも、司馬昭が存命だった時代は100年前。
実態など誰も覚えてはいない。
文書に残るのみだ。
司馬昭の事実などどうでもよい。

ここは、桓温の禅代、簒奪と言う名の禅譲を防ぐために、
曹操・曹丕型の禅譲を全否定しなくてはならない。

そのためには、
晋=漢で、絶対不朽の王朝であることを示す必要がある。

不完全な王朝・蜀漢から正統を受けたことにする。
そのためには、劉禅は徹底的に貶めなくてはならなかった。

本来は蜀漢が漢を継ぐ。
しかし「あまりにも」劉禅がダメすぎるので、
司馬昭が天命の下、放伐した。
漢は滅びたが、漢の天命は司馬昭が受け継いだ。
本来、漢の天命は無窮のものである。
そのため、晋は無窮であり、禅譲・禅代はあり得ない。

当時は魏はまだ存続しているのにも関わらず、
このようなロジックになる。

司馬昭は蜀漢討伐を指揮していないのに、
放伐扱いだ。
指揮していないことを隠すために、放伐と言わないのかもしれない。

本来は漢中が戦略目標だったが、
うまく行き過ぎて
一気に蜀漢を滅ぼしてしまったにもかかわらずでもある。



漢晋春秋とは、こうした政治的主張の強い著作なのである。

中国はよく政治の国と言われる。
漢晋春秋のスタンスはそれを如実に表している。

この劉禅のエピソードは信じるに足らない。

※毛沢東は、講話の中で、
愚か者の例えとして、
「阿斗」を引き合いに出している。
阿斗は劉禅の幼名である。
現代中国にも通じるほど、中国史上愚か者の代表人物になってしまっているのが、
この劉禅である。