以下に前漢成立から西晋成立までの
皇帝権に関する流れを記載したい。
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皇帝権確立途上期
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皇帝権確立
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皇帝独裁
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【皇帝独裁⇔輔弼の専横】の相克
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王莽の儒家的理想政治
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【皇帝独裁⇔輔弼の専横】の相克
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【魏の皇帝独裁⇔蜀漢の皇帝親政の下輔弼政治】の国家イデオロギー対立
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【司馬氏の貴族連合政権が、魏と蜀漢を呑み込む】
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王莽の儒家的理想政治に範を取る、西晋貴族連合王朝
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●前漢高祖から景帝末期までは、
丞相制。この期間が、皇帝権確立途上期にあたる。
高祖劉邦を支えたたくさんの建国の元勲およびその子孫が、
丞相として執政した。
現代企業の経営と執行の分離に似ている。
この時期は、
楚漢戦争を経て、高祖劉邦の下、天下統一が成ったとは言え、
非常に不安定な時代であった。
まず前提として皇帝権が安定しない。
一つは高祖劉邦の外戚呂后一族の専横。
もう一つは、前154年の呉楚七国の乱に象徴されるように、
皇族(中国史では宗族ということの方が多い)が全くまとまらない。
この時代は、世界史の教科書レベルでは、
郡国制を敷いたとされるが、実際は皇帝権が中華全土に
及ばなかったことを言う。
皇帝は長安を首都として、
東方は北から雲中、洛陽、宛(南陽郡)、江陵までが
支配地でそれより東は諸王の領域だった。
この皇帝支配地は、秦の始皇帝と同様の郡県制であった。
それ以外は、
皇帝の血縁とは言え、
諸王が支配している。
項羽の本拠地を含め、
高祖劉邦の領域でないため、
漢へのロイヤリティの低かった。
呉楚七国の乱は、高祖劉邦の甥の呉王劉濞が中心となって起こす。
時は景帝の時代で、
景帝から仕掛けた部分もあるのだろうが、
それまでは漢皇帝と言えども、この諸王のエリアは手出しができなかった。
●呉楚七国の乱を経て、
漢皇帝は皇帝権を確立させる。
方々に気を使わなければいけなかった皇帝から、
自由気ままに何もかもを決めることができる皇帝へと
変貌したのだ。
景帝は建国の元勲周勃の子で丞相だった周亜夫を
解任してから、丞相を置かなくなった。
面倒な諸調整を行ってもらう必要はなくなり、
逆に皇帝に口を出してくる丞相の存在が煙たくなったのである。
景帝の次代の武帝で決定的に路線変更。
呉楚七国の乱までに、文帝・景帝が隠忍自重して貯めた
国力を爆発的に使う。
四夷を討伐し、国威は振るった。
武帝は皇帝としてのあるべき姿とされ、
武帝以降は、皇帝は前漢の武帝たるべしとされた。
史記は、武帝の正統性の根拠となるべく、
武帝の事績を、中華の成り立ちに置き換えて記述した。
武帝こそが皇帝の理想像となった。
四夷を排除し、中華の威権はこの大地全てを覆う。
皇帝は専制君主であるべきで、この目的のためなら手段は選ばない。
国威は振るったが、武帝の悪い部分、
散財や厳罰、過ちを過ちとして認めないなくてもよい文化、
これらも引き継がれた。
ここに独善的な皇帝が誕生した。
しかし、武帝は絶対君主として大きな過ちを犯した。
本来後継者であった皇太子を疑獄により、
皇后含めて族滅させた。
おかげで後継者が幼年の者しかおらず、
皇帝権を引き継ぐのは難しい。
●それで、結局輔弼の臣が必要となった。
なんとも情けない落ちである。
結局武帝自身が誅殺した皇后の一族である、
霍光に後を託した。
武帝の後を継いだ昭帝は幼いので、
霍光が輔弼する。皇帝権を代行する。
武帝は丁寧にも死の間際に、
自身が確立した皇帝専制の対立軸を
自分で創造して崩御した。
外戚という形で、臣下が権力を握るスキームを
作ってしまった。
武帝は最後まで身勝手であった。
その後は、
皇帝専制と臣下の専横が交互になる。
霍光の死後、霍光一族は、前漢宣帝に討滅された。
宣帝はバランスをとって政治を行う。
次代の元帝は外戚王氏の専横を生む。
そこから王莽が世に出て、前漢は滅びる。
光武帝が漢を復興する。
光武帝は宣帝をベンチマークするが、
その後は、外戚が力を握る期間が長くなる。
鄧氏、竇氏、梁氏らが外戚として力を握る。
それは全てを皇帝が幼年のため、輔弼をするという
名目のもと力を握った。
皇帝が臣下・民と離れすぎているので、
外戚ぐらいしか輔弼を委ねられる者がいないのだ。
しかし、一度任せた権力を皇帝に戻す仕組みはない。
そこで皇帝が権力を取り戻すために宦官を使う。
幼年の皇帝→外戚に委任する→宦官を使って取り戻す
→後継が幼年の皇帝なので外戚に委任する、
この繰り返しである。
途中からは、権力を握りために、
幼い皇帝を力づくで擁立するようになってしまった。
権力が武帝により皇帝に集まってしまったので、
争いが起きる。
皇帝自身も武帝を理想像として、権力を取り戻そうとして、
争わなくてはならなくなる。
これは、
皇帝のあり方の模索とも言える。
実務派皇帝として、全てを自分で動かすのか。
権威の象徴として、臣下に全てを任せるのか。
隋の楊堅以降の皇帝は、前者となり、
日本の天皇は藤原摂関政治以降後者になった。
この思想的過渡期の一つが、
三国時代である。
より厳密に言うと、
魏と蜀漢の対立自体がこの思想対立とイコールである。
魏は前漢武帝を目指した。
呉楚七国の乱が起きないように、
諸王を封じることもなかった。
法律は厳格。外廷の三公は無力で、録尚書事・尚書省が、
皇帝独裁の元に力を握った。
蜀漢は、光武帝を目指した。
光武帝は宣帝をベンチマークしたので、
宣帝とも言える。
優れた輔弼の臣を用いながら、
必要に応じて皇帝が親裁する。
外敵が跋扈しているので、
呉楚七国の乱以前、
高祖劉邦以降景帝以前のように、
臣下に大きな権限を代行させて、外敵を排除させる。
それは皇帝権の確立を目指すものであった。