歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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安堵した司馬昭、亡国の天子劉禅を洛陽に迎え、晋王に就く。

司馬昭の蜀漢討伐から、晋王就任、そして長子司馬炎の禅譲までを、
時系列で見る。

263年9月に長安を発した鍾会の軍勢は、
翌10月に早々に漢中エリアを掌握する。
それを受けて、
263年10月22日 司馬昭、晋公となる。
晋公領は、以下10郡。
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太原・上党・西河・楽平・新興・雁門(ここまで并州)、
河東・平陽・弘農(ここまで司隷校尉)、
馮翊(雍州)を封地とする。
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春秋晋の領地と同じ領域とのこと。
大半が、後の八王の乱、永嘉の乱の震源地なのは非常に興味深い。
 
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263年11月日付不明漢皇帝劉禅、鄧艾に降伏。
263年12月日付不明姜維、涪城の鍾会に降伏。
263年12月日付不明郭太后死去。
264年1月1日鄧艾拘束及び洛陽移送の詔勅。
263年1月3日司馬昭、魏元帝を奉じて長安に向かう。
 
263年1月15日鍾会、成都入城。鄧艾を洛陽に檻車で送り出す。
263年1月16日鍾会反乱宣言。郭太后の偽の遺詔を大義名分とする。
263年1月18日鍾会、魏軍の胡烈らの反乱により殺される。
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この後、状況を見定めて、早々に長安から洛陽に帰還したと思われる。 

蜀漢討滅の功績から、
264年3月19日司馬昭、晋王となる。
3月27日 劉禅、安楽公となる。
 
3月日付不明、司馬昭は劉禅の為に宴席を設ける。
司馬昭が劉禅に蜀は懐かしくないかと尋ねて、
劉禅は全く懐かしくありませんと返すあのやり取りのあった宴席だ。
 
普通に考えて、
この宴席は、
劉禅が安楽公に封じられる前であろう。
処分保留として、司馬昭が面会する。宴席という場で。
宴席では司馬昭が亡国の天子となった劉禅を慰めるという
立ち位置である。
これもやはり普通に考えて、晋王に就いてからであろう。
その前ではさすがに気もそぞろで、宴会どころではない。
 
 
司馬昭は晋王に就いてから、
亡国の天子劉禅を見下ろす形で、宴席に臨む。
権力の絶頂にある司馬昭を、劉禅は仰ぐ。
 
この図式が正しいのではないか。
 
264年5月1日 裴秀の建議により、
司馬昭が五等爵の賜与を上奏。おそらく7月に実施。
鍾会のような名族の反発を抑えるため、かつ名族の支持を得るため。
今後起きる事態に反対しなければ、皆さんの地位は保証しますという
宣言に等しい。
 
264年10月20日 司馬炎を晋王の世子とする。
 
ここまで固めたら、後は熟柿が落ちるのを待つばかりである。
つまらない、やらせの瑞兆を報告させ、
タイミングを見計らう。
やむを得ないのではあるが、
このあたりは、何度も、晋公・相国・九錫の
三点セットを司馬昭が6度辞退(256年6月【九錫のみ】、258年5月、260年4月【この後曹髦弑逆さる】、261年8月、263年2月、そうして263年10月にようやく受ける。)
しているのと同じいやらしさ、偽善である。
 
265年8月9日 晋王相国司馬昭死去。
265年9月24日 司馬昭、埋葬される。
265年12月晋王相国司馬炎、魏皇帝元帝から禅譲を受ける。