歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

ほぼ丸腰状態で禅譲を受けた西晋武帝司馬炎

●司馬炎は29歳で魏元帝から禅譲を受ける。

●司馬炎は政治経験がほぼなかった。

●司馬炎自身には何の実績もないままの禅譲成立。

●司馬炎は実は後継者争いを乗り越えて即位している。

●河内司馬氏の与党・譜代がほぼいない中の西晋成立。

 

司馬昭は司馬攸を後継者にしたかったが、

司馬攸の舅賈充に拒否され、断念した。

賈充は司馬炎に恩を売った形になるが、かといって、

司馬攸の舅を重用するわけにもいかない。

 

司馬炎の即位後に賈充の影が見当たらなくなるのは

その為だ。

 

司馬昭は、後継者を司馬攸にするのは諦めたが、

ただそれに留めた。

曹操が、曹丕と曹植のどちらを後継者にするかを悩み、

曹丕が即位後曹植どう遇したかを

司馬昭は忘れたのである。何もしなかった。

 

司馬炎は、司馬昭のスタイル、性格を大きく受け継いでいる。

司馬炎の祖父司馬懿、叔父司馬師のような、

理論派で時には冷徹な判断も下すスタイルは、

急遽の司馬昭の家督継承により、断絶した。

 

人の好い司馬昭は、

逡巡し、狼狽し、しかしながらその人の好さが

身を助け、禅譲の手前まで昇りつめた。

 

それは当時の名族、魏を嫌い漢王朝を懐かしむ輿論の

望むところであったので、

司馬炎は基本的なスタイルを、

父司馬昭のものを踏襲する。

 

司馬昭は、しかしながら、

司馬氏の与党を使い果たしていた。

 

元々一朝臣でしかない、司馬氏には与党、

日本の言い方でいうと、譜代が非常に少ない。

 

司馬懿が武官として各地を転戦した際に主に

従軍した者およびその子孫、または

その後司馬師が引き上げた人材が中心である。

 

前者は、鄧艾、胡遵、胡烈、

後者は、賈充

である。

 

前者の枠に毌丘倹もいたが、乱を起こして殺されている。

 

全幅の信頼を置けるのはこのぐらいしか

いない。

また司馬昭の時代になると、

九錫に王手をかけるのような状況だ。

ここまで高位に昇ると、

直接の人材採用が難しくなる。

これは漢以来ある制度上の問題は

引き続いている。

皇帝が政治・軍事の現場から遠ざかることで、

人材採用が直接できなくなる。そのため、皇帝は

孤立する。

 

皇帝ではないが、

禅譲に王手をかけている司馬昭も同様であった。

 

新たな人材は出てこない。

 

にも関わらず、

胡遵は256年に死去

鄧艾は264年衛瓘に殺され、

賈充は弟の舅の為使えない。

 

残されたのは、

鍾会の乱でも司馬氏の為に戦ってくれた胡烈だが、

彼は武官としての才能のみである。

政治には使えない。また、

司馬炎禅譲成立の後の話だが、

胡烈は270年に関中で起きた、

鮮卑の禿髪樹機能の乱で戦死する。

 

一言で言うと、

腹心が全くいないのである。

司馬炎にとって使える駒は

ほぼいなかった。

 

 

西晋の武帝司馬炎 福原哲郎 白帝社_4