結論として、武帝司馬炎は、政権末期外戚の楊氏に頼る他なかった。
それ以外は何故頼りにならなかったのか。
4つのカテゴリーから説明する。
----------------------------------------
●親族(宗族と呼ぶ)
自家の利益ばかりを考えた。
●姻族(ここでは外戚は除く)
他勢力から叩かれ、武帝司馬炎から遠ざけられた。
●名族
親族と同様自家の利益のみを追求。
●寒門
力不足。上記三勢力が強く、のし上がる機会もないため。
----------------------------------------
子飼いの少ない武帝司馬炎は、
必然、親族、姻族に支援を求めることになる。
司馬氏は、司馬懿の兄弟が、司馬八達と言われたころから、
俊英揃いである。
司馬炎に禅譲成立の時点では、
当時評価の高かった
親族を下記に挙げる。
●親族
司馬懿の弟司馬孚を筆頭長老に、
司馬朗家を継いだ司馬孚の息子司馬望、
司馬師・司馬昭の異母弟で司馬炎にとっては叔父にあたる、
司馬亮、
司馬伷、
司馬駿、
それに弟の司馬攸を加えれば、
粒揃いである。
(西晉の武帝 司馬炎 福原哲郎氏著 白帝社から引用)
ただし、彼ら親族は別家を建てており、
それぞれの利益で動く。
また司馬炎よりも年長者が多く、
司馬炎は皇帝と言えど、気を使わなくてはいけない存在である。
気を使って使ったにも関わらず、
最終的には八王の乱という形で、各家で激戦となる。
西晋および司馬氏一族の滅亡の原因となる。
●姻族
また、姻族には、
亡き司馬師未亡人羊氏の同母弟羊祜、
司馬師・司馬昭の異母妹婿の杜預がいる。
中央の重要ポストは、
名族に配慮して振られているので、
羊祜・杜預はつけなかった。
司馬炎が周囲の意見に惑わされて、
適切な評価ができなかったためである。
こちらは武帝司馬炎がフルに活かすことができなかった。
彼ら二人は、天下に仕える名臣である。
決して司馬氏の姻戚だからといって利益だけではなく、
応分の不利益も蒙った。
武帝司馬炎から遠ざけられたこともあった。
武帝司馬炎に忠義であったわけではないだろう。
恨みもあったのではないか。
しかし、彼ら二人は筋の通った硬骨漢であり、義臣である。
身を賭して業務に当たったのは天下に仕えるという
古からの価値観を有していた。
彼らは本来頼りになったが、
武帝司馬炎は適切な評価ができず、
活用できなかった。
ーーーーーーー
●寒門
姻族の羊祜・杜預、
これに加えて、寒門出身の張華が、
全うに武帝司馬炎を支えた。
張華は、魏明帝曹叡の中書・劉放の娘婿である。
魏明帝曹叡が親政独裁を確立するときに仕えた秘書(実際の官名は中書)
が孫資と劉放であるが、その一人の婿である。
竹林七賢の筆頭格阮籍に賞賛され世に出る。
正史三国志を著した陳寿の後援者である。
陳寿の才能を認めたのが張華である。
武帝の側近と言ってよい存在だが、
各名族の妬みをに受ける。讒言に惑わされた
武帝司馬炎は左遷することもあった。
張華は浮沈の大きい人生を送る。
武帝司馬炎は張華すらもうまく使いこなせない。
彼らだけが、天下の視点に立って、武帝のことを慮り、
提言してくれるメンバーであった。
呉討伐を進言したのは、彼ら三名である。
杜預はこの絶好の機を逃すことは、天命を逃すことにほからないと言っている。
逃すと、これは逃した側に厄災が降りかかるのだ。
●名族
反対に彼ら以外の主に名族層は、
自分自身の保身のために、呉討伐を反対した。
これ以上の栄達を望まず現状維持がよいのだから当然であろう。
その代表格は賈充である。
賈充は名族の支持を受けているから、このカテゴリーになるが、
本来賈充は、姻族であり、恵帝即位後外戚にもなる。
そして本来は、名臣と呼べる実績も作ったし作れたのだが、
賈充本人がそうなるとしなかった。
(西晉の武帝 司馬炎 福原哲郎氏著 白帝社から引用)