歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

西晋武帝司馬炎は、祖父司馬懿と叔父司馬師のツケを背負う。

 

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【政権掌握期間の羅列】

①高祖宣帝司馬懿249-252 3年

②世宗景帝司馬師252-255 3年

③太祖文帝司馬昭255-265 10年

④世祖武帝司馬炎265-290 25年

⑤恵帝司馬衷290-306 16年

(途中301年1月から4月まで譲位し太上皇となっていた。皇帝経験者初の太上皇)

⑥懐帝司馬306-311 5年

 

(高祖は劉邦・曹騰、世宗は前漢武帝、

太祖は劉邦・曹操、世祖は後漢光武帝。)

※劉邦は、正式には太祖高皇帝である。しかし、

後に高祖と呼ばれることが通例となった。

 

 

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司馬炎の魏晋革命。

これは下記の二つの見方ができる。

 

①事実上の創業は司馬懿。

司馬師が正始政変の実行に深く関与していたのなら、

司馬師も創業者である。

 

しかし、創業はなったが、その後の守成のための、

政権固めができなかったと言える。

 

彼らがもっと長命で、

禅譲まで漕ぎ着けることができれば、

絶対的な力を握ることができたかもしれない。

制度を自身に都合よく変えることもできたかもしれない。

 

しかし、司馬懿、司馬師共に、政権を握ってから三年しか生きることができなかった。

それぞれ王凌の乱、毌丘倹の乱を鎮圧することしかできなかった。

 

このつけは、司馬昭、司馬炎に回る。

 

司馬昭は、司馬懿・司馬師で滞った禅譲への流れを再度創り出し、

禅譲への道を整えることには成功した。

 

そうして、司馬昭の後を継いだ、

司馬炎は、実質的には三代目である。

(司馬懿の孫である。)

初代司馬懿、司馬師、二代目司馬昭が

それぞれのタイミングで本来すべきことのツケを司馬炎が

背負った構図になる。

 

初代の司馬懿、司馬師の短命は、

政権固めの時期を逸してしまった。

この時期の皇帝の寿命というのは、

政権の安定に強い影響をもたらすことがわかる。

 

②王莽型の革命、政権交代

建前はあれど、

皇帝や天子というポジションは禅譲や放伐といった手段の違いこそあれ、

結論として力づくで奪うものである。

 

力の奪い方は、

基本的に武力である。

乱世において、軍閥として頭角を現し、

軍閥相争う中、勝ち残り、

最終的に、それまでの皇帝・天子の力を凌駕する。

 

その結論として、

自分自身が皇帝・天子に取って代わるという

プログラムだ。

 

しかしながら、その例外が王莽であり、

司馬炎である。

 

2人の共通項は、

軍事に従事したことがないことである。

王莽は大司馬、

司馬炎は大将軍という

当時の武官最高峰の臨時職にありながら、

軍事に携わったことがないことは面白い。

 

ただ、

輿論が前の王朝を嫌い、

彼らを求めた、ということのみである。

 

軍人皇帝は王朝創業まで戦い抜いてきたからこそ

たくさんの子飼いの臣下がいて、

王朝創業後もその臣下らが創業を助ける。

 

しかし王莽と司馬炎にはそれがいなかった。

王莽には禅譲計画立案の劉歆がいるのみ。

司馬炎には禅譲を助ける名族が多々いるが彼らのベクトルは、

自家の利益のみ。

司馬炎を助けようとしたのは、

張華・羊祜・杜預だが、

司馬炎は名族を重用し、彼らを必ずしも一貫して登用していたわけではなかった。

 

王莽と司馬炎の禅譲・禅代は、

無血革命であったからこそ孤独であった。

権力基盤が非常に貧弱であった。

権限も著しく限定されていた。

そのため、革命を支持していた輿論も、

両政権がうまくいかないと見ると、

すぐに反乱を起こす。