歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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西晋は賈充に始まり賈充に終わる

司馬懿・司馬師がきっかけを作ったとはいえ、
賈充こそが司馬氏の方向性、
西晋成立への道筋を作った。

西晋成立後は、
賈充こそが、例えば、前漢の蕭何のように、
名臣として振る舞えば
王朝は長らく継続したかもしれない。

しかしながら、彼は
保身に走り、王朝は方向性を見出せず、
滞った。

賈充は司馬攸の舅でありながら、
司馬炎の嫡男司馬衷にも娘を嫁がせる。
267年に8歳にして早くも皇太子となった
司馬衷は生まれつき暗愚であった。
司馬炎の同母弟司馬攸に
司馬炎の後を継がせるべしという輿論がある中、
司馬炎に追従したことになる。

賈充は、本来は正当王朝として、
中華統一を目指すべきところを
そうはしなかった。

失敗を恐れいていた。

呉討伐に消極的のみならず、
反対している。
呉討伐の成就まで、西晋成立から15年かかったのは、
やはり西晋の重鎮賈充の反対は大きかったと私は考える。

武帝司馬炎が、
対呉遠征の総大将に賈充を据えることにこだわったのは、
賈充の反対を抑えて実行する、
すなわち挙国一致ということにこだわったのだ。

賈充は王朝成立の推進力になったが、
一方で西晋成立後は、王朝発展のブレーキをかける存在でもあった。

賈充の死後、武帝司馬炎は、早々に司馬攸を
洛陽から追いおうとする。
賈充は司馬炎の息子、恵帝の舅であり、
司馬攸の舅である。

武帝司馬炎はとにかく自身の血統で王朝を継承するということに
こだわった。当然といえば当然だが、
暗愚であろうが、8歳であろうが、王朝が創業されたばかりであろうが、
とにかく急いだ。それは武帝司馬炎自身が後継者争いを
暗闘した相手である司馬攸の存在があるからである。


司馬攸を排除したくとも、武帝司馬炎は
賈充に配慮しなくてはならない。そのため簡単にはできなかった。

王朝の創業者武帝司馬炎が配慮しなくてはならないのが
賈充である。本人にその自覚はなかったかもしれないが。

賈充の死後すぐに司馬攸を
洛陽から追い払い、任国の斉に行けと命令する。

これに関しては、
少々曖昧な記述が多い。
位置づけが不明確な言い方が多い。
が、これは明確な左遷である。

故事がある。
それは王莽の左遷である。
王莽は前漢成帝のとき大司馬として政権を握った。
しかし成帝崩御後、後を継いだ哀帝は、
王莽を嫌った。
前漢哀帝は王莽の任を解き、
任国に帰藩させたという件だ。

これは中央の官職を免官し、
地方に追放するもので、明確に左遷とされている。

日本でいえば、
江戸幕府において老中に就いていたものが、
突然将軍により解任され、
藩に帰れと言われるのと同じだ。

政治的追放に他ならない。

司馬攸は、王莽の左遷と同じことを、
兄武帝司馬炎にされたのである。

武帝司馬炎は司馬攸を斉へ行くようにと命令する。
司馬攸はそれを憂いて、悶死するのだ。
王莽の故事からわかるようにこれは悶死するほどの事件なのである。

こうして、
武帝司馬炎が同母弟司馬攸を排除することで、
司馬氏の結束は揺らいだ。
西晋自体の結束も揺らいだ。
司馬攸を支持していた、士大夫は多かったのである。

武帝司馬炎は外戚の弘農楊氏しか頼る先がなくなってしまった。

楊氏もうまく機能せず、
それを打倒したのが賈充の娘で恵帝の皇后賈后である。

賈充の娘賈后は、
皇帝の名を騙って、皇帝権を濫用し、
王朝を崩壊させた。