歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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八王の乱② 概説 ~外戚同士、宗族同士の同士討ち~

八王の乱の大枠をまず簡潔に記したい。

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賈后がきっかけとなり、

司馬倫が宗族争いへと発展させ、

司馬越が勝ち残ったが、西晋は分裂した。

そこを劉曜と石勒が突き、西晋は滅亡したのである。

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足掛け20年間に及ぶ、内乱である。

フェーズは17ターンある。

 

八王の乱はややこしい。

どういう経歴かわからない人物が多々登場する。

司馬氏が中心の内乱で、みな司馬が姓であり、覚えにくい。

しかし、だからこそ調べていくと、八王の乱は面白い。

西晋のみならず、漢から三国時代、西晋に至る前の

諸問題の集大成なのである。大枠から話を始めて

ディテールに入っていきたいと考える。

 

武帝司馬炎の崩御により、恵帝司馬衷が即位。

これにより、皇帝が無能力化する。

皇帝権の争奪戦が始まる。

外戚同士の争いが発端。

外戚同士の争いに、宗族が巻き込まれる。

宗族同士の争いに移る。

宗族同士の争いに、有力者や異民族が巻き込まれる。

これらの結果、それぞれの勢力の自立を促す。

西晋は分裂する。

そこを、異民族の匈奴が突く。

西晋は滅亡する。

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①291年3月

外戚楊氏 対 外戚賈后

→外戚賈后の勝利。

 

②291年6月

外戚賈后 対 宗族司馬亮

→外戚賈后の勝利。

 

③300年4月

外戚賈后 対 宗族司馬倫

→宗族司馬倫の勝利。

 

④300年8月

宗族司馬倫 対 宗族司馬允

→宗族司馬倫勝利。

 

⑤301年1月

西晋皇帝恵帝 対 宗族司馬倫

宗族司馬倫の勝利。司馬倫は恵帝に禅譲を無理強い。

皇帝に即位する。

 

⑥301年3月から4月

宗族司馬倫 対 宗族司馬冏・司馬乂・司馬穎・司馬顒

→宗族司馬冏・司馬乂・司馬穎・司馬顒の勝利。

 

⑦302年12月

宗族司馬冏 対 宗族司馬乂・司馬穎・司馬顒

→宗族司馬乂・司馬穎・司馬顒の勝利

 

⑧303年8月から304年正月

宗族司馬乂⇔宗族司馬穎・司馬顒・司馬越

宗族司馬穎・司馬顒・司馬越の勝利。

 

⑨304年7月

成都王司馬穎(恵帝の弟・第四世代)

を東海王司馬越が恵帝の異母弟・予章王司馬熾(後の懐帝)を

担ぎ出し、打倒しようとするが、一旦敗れる。

 

⑩304年8月

宗族司馬穎 対 宗族司馬顒・司馬越・幽州諸軍事王浚

→宗族司馬顒・司馬越・幽州諸軍事王浚の勝利。

 

305年7月から306年6月

宗族司馬顒⇔宗族司馬越・王浚

→宗族司馬越・王浚の勝利。

 

306年11月

西晋皇帝恵帝死去。

懐帝即位。

 

309年6月以降

懐帝 対 司馬越

 

310年11月

司馬越、許昌に移動。逃亡。

→事実上の西晋分裂。

 

311年3月

司馬越死去。

 

311年4月

石勒に亡き司馬越の軍勢破られる。

 

311年6月

漢を名乗る匈奴の劉聡の指示で劉曜が洛陽陥落させる。

懐帝捕捉される。

→事実上の西晋滅亡。

 

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