歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

八王の乱⑧ 賈后政権の構成 賈充の政敵張華と司馬越の父司馬泰が参画

 

【賈后政権】ーーーーーーーーーーー

さて、賈后が政権を摂るが、

この期間は安定していたことは間違いのないことである。

ちょうど、元康年間(291年ー300年)とほぼ同時期である。

 

賈后が政権を摂ったとはいえ、政権運営ができるわけではない。

本来は、外戚が政権運営に当たるべきだが、適任がいない。

賈后の父賈充は282年に死去、一人っ子であったので、兄弟がおらず、

かつ賈充は男子も早世していた。外孫を強引に養子にして賈充の後を継がせたほどで、

賈氏は男性がいない。賈充の後を継いだ、本来は外孫の賈謐(277年頃?ー300年)

は当時14、15歳ぐらいである。

賈謐は元々韓姓で、その血筋は、戦国時代の韓王家に連なる名家である。

本来は韓謐であるが、賈充の後継者がいないことで、

賈充が強引に後継者にして、武帝司馬炎に認めさせた。

 

そこで、賈后政権時の

事実上の政権運営者となったのは、張華(232年ー300年)であった。

張華は、寒門出身で大族ではなく脅威にはならないので、賈后ら賈氏にとって安全であった。

 

張華は魏明帝曹叡の側近劉放に認められ、その娘を娶ったことが

世に出るきっかけとなる。

張華は竹林七賢阮籍の賞賛で世に知られるようになる。

(司馬昭は竹林七賢に対して尊敬していた。)

武帝司馬炎が265年に跡を継ぐと

張華を重用、側近となる。(侍中府の散騎常時として)

都督荊州諸軍事の羊祜が呉討伐を上奏した際には、

権臣賈充以下の反対の中、唯一賛成の意を表したのが張華である。

280年の呉討伐成功の際には武帝司馬炎から功績を賞される。

 

しかしながら、

司馬昭の後継者を

武帝司馬炎と争い、そして当時は輿論上、

後の恵帝と後継者を争う構図になっていた、武帝司馬炎の同母弟斉王司馬攸を

賞賛したことから、張華は賈充・荀勗に足をすくわれる。

張華の栄達を嫉妬した両者が、武帝司馬炎に対して張華を讒言する。

武帝司馬炎にとって司馬攸関連は非常にセンシティブである。

父司馬昭が本来は司馬攸に跡を継がせたかったことを知っているからだ。

 

張華は都督幽州諸軍事とされ左遷される。

張華は幽州において異民族の慰撫に成功し心服させ、

成果を挙げるも、さらに讒言で罷免される。

 

そうして、武帝司馬炎崩御、その後の賈后クーデターを迎えることとなる。

 

また、張華と合わせて賈后政権を支えたのは、

裴頠(267年ー300年)である。

 

名族河東裴氏の出身で、裴秀の子である。

母は郭氏、すなわち郭淮の一族である。

裴頠の母と、賈后の母は同じ郭氏出身で姉妹であった。

つまり従兄弟である。

裴秀は西晋建国の元勲で、賈充がリーダーの泰始律令の制定の際にはメンバーとして参画、

また礼法の制定にも功を挙げる。裴秀は、玄学清談派であり、

実学を継いでおり、それは息子の裴頠にも受け継がれる。

しかしながら、当時は清談の虚無思想の部分が伸長してきており、それに批判的な裴頠は、

「崇有論」を著して、

一方で虚無思想の当時の代表者王衍と討論をしている。

 

張華と裴頠を事実上の政権運営の中心として、

宗族は司馬泰と司馬晃を

それぞれ太尉録尚書事、司空録尚書事として、名目上のトップ、

名族は、瑯琊王氏で、竹林七賢の王戎を、

尚書左僕射とした。王戎は合わせて吏部(事実上の採用全権)を掌握。

このメンバーでで賈后政権を構成した。

 

ここで出てきた二人の宗族についても、

説明をしたい。

司馬泰(223年?ー299年)は、司馬懿の四弟司馬馗の次男である。

長男司馬権は既に亡く、司馬馗の長老は司馬泰であった。

宗族としても当時最年長であったようで、

司馬亮の次の宗師となる。

なお司馬泰の長男が八王の乱を勝ち切った司馬越である。

 

司馬晃は司馬懿の三弟司馬孚の第五子である。

第五子とはいえ、四人の兄は既に亡く、司馬孚家ではやはり長老である。

 

彼ら個人の能力はさておき、

武帝司馬炎が宗族司馬氏を各地に王侯として封じたことから、

宗族はそれぞれ広大な領地を持っている。

その中で、

この賈后政権では、

司馬馗家と司馬孚家の二族が賈后政権を支えているというのは

注目に値する。

 

司馬懿の弟の系譜で、

八王の乱に参加しているのは、

司馬越と司馬顒である。

司馬越は上記司馬泰の長男である。

司馬顒は上記司馬晃のすぐに下の弟の息子である。

 

それぞれが政権中枢に入ったのは賈后政権であり、

ここでそれぞれ一族として力を持ったというのが理解できる。

 

司馬孚は西晋成立時、最も多く封邑を貰い受けた者であり、

司馬馗には事績はないものの司馬泰はこの時点では、

司馬亮の跡を受け宗師として司馬氏全体の長老として、

勢力権限を伸張させたであろう。

司馬泰は節倹であったという記述があり、

その記述は司馬孚の子で司馬朗を継いだ司馬望を想起させる。

司馬望は名声が高かったが、死後蓄財が度を超えていたので輿論から批判された。

とはいえ、これは当時の風潮としては、イレギュラーなことではない。

ひけらかすかひけらかさないかの差である。

贅沢競争をした、

建国元勲石苞の子石崇や武帝司馬炎の母方の叔父王愷と同じである。

征呉がなり三国統一が完成され、中華に平和が訪れた。

そうすると復興経済となり、経済が高度成長する。

石崇と王愷は、それぞれが所有する珊瑚の大きさを自慢し合うエピソードが有名であるが、

その珊瑚は日本からもたらされたものかもしれない。

また中国の宝飾品として人気のある翡翠は、

ミャンマーが主な産地であり、蜀経由で入ってくる。

それらは四海の中心洛陽に交易を通じてもたらされる。

 

そうして、いわば成金が生まれる。

それをひけらかすかひけらかさないかの差である。

この蓄えられた富は後の八王の乱の遠因である。

 

司馬泰の蓄財は、後に八王の乱を戦う息子司馬越の大きな戦力となったであろう。

 

このようにして、

後世の賈后に対する評価とは反するかのごとく、

バランスの取れた政権運営メンバーが構成され、

10年の安定がもたらされる事になる。