歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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賈謐にとっての、「賈謐二十四友」とは何なのか。

【賈謐二十四友は、賈謐と石崇が手を結んだことによる産物である。】

 

 

賈充の外孫で賈充家の当主賈謐は長じて、

士大夫と交流を積極的に持つ。

それらは賈謐二十四友と呼ばれる。メンバーは、

石崇・欧陽建・潘岳・陸機・陸雲・鏐世徴・杜斌・摯虞・諸葛銓・王粹・杜育・鄒捷・左思・崔基・劉瓌・和郁・周恢・牽秀・陳眕・郭彰・許猛・劉訥・劉輿・劉琨

である。

 

賈謐二十四友は、これら人材が出世を求めて賈謐に取り入ったという考えが多いようだが、

ことはそう単純であろうか。

 

賈謐は、賈后政権において、外戚であり、執権の立場でありながら、

賈謐自身が若年で、かつ祖父賈充に親族が少ないため、極めて立場は弱い。

そもそも賈后政権の政権運営者張華は、賈充の対立派閥任愷に組みしていた。

事実、張華の名声が高まってくると、賈充は張華を左遷している。

 

政権は賈后が摂るものの、

政権運営は賈后の権威のもと、元々賈充と対立した張華らが運営している。

 

このバランスが賈后政権が約10年続いた要因だと思われるが、

賈謐にとっては身動きがままならない。

権力を振るうポジションにいるものの、

手足となる人材もなく、賈謐自身に名声がないのだ。

 

そこで名声と人脈の足りない賈謐と、

権力へのアクセスができない石崇が結びついた。

若造の賈謐が積極的に石崇と接点を持つというのは考えにくいから、

石崇が賈謐にアプローチをかけたのである。

賈謐は石崇の人脈を活かして、名声を高めた。

石崇は金谷園という庭園でサロンを開いていた。

そこに文才のある人材が集まっていた。

それを石崇は賈謐に献上した。

 

 

石崇自身は、父石苞が司徒にまで昇るも、

元々は寒門の出身で、この名族の時代においては劣勢であった。

非常に危うい立場に置かれていた。

 

賈謐は賈謐で、

賈充の孫で賈后の甥として

賈氏を率いる立場でありながら、全く名声も人脈もない。

 

この二人の利害がちょうど合致したのである。