賈謐二十四友というわけなので、24名いる。
彼らの事績を各論で述べる前に、全体像から入って説明をしたい。
賈謐二十四友というが、賈后政権が倒れた際に、司馬倫ないしは孫秀に殺されたのは、4名のみである。
ほかは生き延びた。決して、全員が賈后・賈謐の与党という見られ方をしていなかったのはこれでわかる。
だが永嘉の乱は生き延びることができない者が大半である。
西晋への忠義を貫いて、死んだ者も多い。
乗り越えられたのは、陳眕のみである。
純粋な詩人は、左思ぐらいである。
彼らは高名なので、大半は八王の乱から永嘉の乱に掛けて
ちらちらと姿を現す。
牽秀が陸機を司馬穎に讒言し、殺害させるなど対立もある。
陸機・陸雲兄弟は詩人としての才能もさることながら、
あの陸遜の孫ということもあって目立つ。
劉琨の独自性も際立つ。
最後まで華北で異民族に抗戦した漢人であるが、
前漢景帝の子中山靖王劉勝の末裔という血統を持つ。
決して賈謐二十四友は三公になるほどの名門・名族ではないが、
由緒のある者が多い。西晋貴族名族政権において、割を食った人たちではある。
下記に各人の末節と由来について
まずは簡単に記載する。
①石崇・・・300年孫秀に殺された。父は石苞。
②欧陽建・・・300年孫秀に殺された。末裔に北宋の欧陽脩。
③潘岳・・・300年孫秀に殺された。
④陸機・・・303年司馬穎に殺された。祖父は陸遜。
⑤陸雲・・・303年司馬穎に殺された。陸機の弟。
⑥鏐世徴・・・不明。
⑦杜斌・・・300年司馬倫に殺された。(張華・裴頠らとともに。)
⑧摯虞・・・311年、懐帝の時、劉曜により洛陽が陥落させられたのち流亡し餓死。
⑨諸葛銓・・・311年故司馬越軍に従軍、石勒の攻撃を受け殺される。諸葛緒の孫。
⑩王粹・・・308年石勒による鄴攻撃のとき戦死。王濬の孫。
⑪杜育・・・311年、懐帝の時、劉曜により洛陽が陥落させられた時殺される。杜預と同族。
⑫鄒捷・・・永嘉の末年に死去したらしい。
⑬左思・・・303年に洛陽から冀州に避難、数年後に病死。
⑭崔基・・・不明。清河崔氏。
⑮劉瓌・・・不明。
⑯和郁・・・311年劉曜に洛陽を攻めた際に援兵を集めている最中に病死。
⑰周恢・・・不明。
⑱牽秀・・・司馬顒サイドに属するも、306年最終的には味方によって殺害される。
⑲陳眕・・・東晋二代皇帝明帝のとき(322年-325年の間)に江南で死去。
⑳郭彰・・・司馬倫クーデター前に病死。賈后母方の実家郭氏。
㉑許猛・・・不明。
㉒劉訥・・・不明。
㉓劉輿・・・司馬越の輔佐になった後311年病没。前漢景帝の末裔。
㉔劉琨・・・318年鮮卑段部により殺される。劉輿の弟。