①石崇
②欧陽建
③潘岳
④陸機
⑤陸雲
について、下記に記す。
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①石崇・・・建国元勲の石苞の末子。
石苞は晩年司徒にまで登った。元々武官であり、寒門(非名族)。
同じく寒門の鄧艾とともに御者の仕事をしたことがある。
子の石崇は贅沢競争で有名。洛陽郊外に別邸金谷園にて、
この二十四友ら文人を集めて、詩歌を読んだ。
サロンの一種と思われる。
この金谷園で行われた宴には、後に東晋の丞相になる王導や大将軍となる王敦も
参加した。東晋及び南朝のサロン(謝氏や蕭氏のもの)に大きな影響を与えたと思われる。
中国では、賈謐二十四友ではなく、金谷二十四友と言う。
後に司馬倫の執政孫秀に殺される。
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②欧陽建・・・
清談派の学者で、「言尽意論」を著す。
「言葉が真理を言い尽くすことができる」という考え方を主張する。
中華の大半は、欧陽建自身も認めているが、
「言葉が真理を言い尽くすことはできない」という考え方がである。
鍾会の才性四本論の流れを汲むものであり、
後世には日本の空海にもこの影響が見られるとする学説もある。
姓から想像できるように、唐の書家欧陽詢、北宋の欧陽脩は族裔である。
欧陽脩によると、越王勾践の末裔がこの欧陽氏とのこと。
のちに欧陽建は孫秀に殺される。
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③潘岳(247年ー300年)・・・
西晋の代表的文人。この金谷園のサロンにおける代表的な文人でもある。
代表作は、「悼亡」詩。愛妻の死を嘆いたもの。後世に大きな影響を与える。
容姿端麗だった。夏侯諶と並んで、「連璧」とされる。
外戚楊氏の娘を娶っていたため、賈后クーデターで没落するが、
賈謐に拾われた。そのため、賈謐に追従したため、
「後塵を拝す」という故事まで生まれている。
八王の乱の最中、孫秀に殺される。
潘岳の父が瑯琊郡の太守であったとき孫秀は小役人であった。
潘岳は孫秀を人間扱いせず、酷使し、虐待した。
それを当然覚えていた孫秀は、司馬倫の執政として賈后を打倒した後、
潘岳を殺して復讐した。
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④陸機(261年ー303年)・・・
祖父陸遜、父陸抗を持つ、呉の名門である。呉郡四姓の一つ(朱氏、張氏、顧氏、陸氏)。
顧栄の妻は陸機の妹である。
呉郡陸氏は戦国時代の田斉宣王の子田通が、陸氏を名乗ったことが由来である。
田通の四代後の子孫が呉郡に役人として赴任し、そこで埋葬されたことで、本籍が移った。
文人、書家として名高い。
「文賦」は、文学理論・批評の名作である。
「平復帖」と呼ばれる書は、現存最古の真筆とされる。
王羲之にも影響を与えていると言われる。
また「弁亡論」という書物を著している。呉の滅亡に関して、三国との比較の中で、
呉の滅亡の致し方なさを記載しており、陸機の人柄が偲ばれる。滅亡の主な原因は、
分封制としている。
呉の滅亡に際して、兄らは戦死した。陸機は陸抗家を率いる立場となるが、
郷里に引き篭もる。張華により、弟陸雲とともに推挙され、中央に出る。
金谷二十四友の一人として、太康文学の代表的人物として活躍。
石崇が賈謐と結びつくことにより、
その与党とされるが、
後に司馬倫がクーデターを起こす際には、司馬倫に付く。
司馬倫が恵帝から皇位を簒奪し皇帝になるが、
その際の恵帝の禅譲の詔勅は陸機の作と言われている。
司馬倫王朝では、陸機は中書令となる。
その後、司馬冏・司馬穎・司馬顒の三王起義で司馬倫が打倒された際には、
司馬倫に仕えていた者たちが多数連座する中、
陸機は司馬穎に登用される。
後に、司馬穎は洛陽の司馬乂と対立し、攻撃するが、その総司令官に陸機を抜擢する。
しかしながら、司馬穎を長らく支えてきた范陽盧氏の盧志以下司馬穎の諸将は、
陸機に反感を持っており、洛陽の司馬乂攻撃は全く上手くいかなかった。
そうした中、司馬穎の諸将が陸機が司馬乂に通じていると讒言し、それを信じた
司馬穎に弟陸雲や息子たちとともに誅殺される。ここに陸遜の直系は絶えた。
非常に多才な人物で、
自分の意思を明確にし、他人に追従しない硬骨漢であり、
だからこそ当時の成金風潮、利己主義の中で人気があった。
しかしながら、他人からの嫉妬を受けても意に介さず、自分を貫いたことで身を滅ぼしてしまった。
「文賦」は、文学理論・批評の名作とされるが、ここで想起されるのは、
曹丕編著の「典論」である。史上初の文学評論が典論である。
詩文を吟じる時点で、魏の影響を想定する必要がある。
代表的人物は曹操、曹丕、曹植だ。
彼らは、古文に則るのみの文学を、自由闊達に文字を操って詩を吟じた。
それは、実力主義の曹魏が引き起こした一つの革命でもある。
陸機はこの曹魏の系譜を継いでいる。
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⑤陸雲・・・
陸機の弟。
陸雲が盧志と言い争う際は、その後兄をたしなめるなど、
優しげなエピソードの残る人物である。
兄の陰に隠れがちだが、
詩人として非常に著名である。
陸雲は曹操を尊敬しており、
鄴を訪ねている。魏を受け継いだ西晋は当時、
曹操の故居を残していて、陸雲はそこを訪ねている。
「陸雲與兄平原書」で鄴に曹操の事跡を訪ねた時の話を
手紙で兄陸機に知らせている。
陸雲は卓越した詩人として、詩の祖と呼んでもよい曹操に対して
憧れを持っていた。
陸機・陸雲兄弟は多才であり、
亡国呉の名族の出身である。
西晋に対する反発がある。また西晋は貴族名族政権であり、
出自が物を言う。そうした中で、当然亡国の出身である陸機・陸雲兄弟は不利である。
にも関わらず、彼ら兄弟が多才となれば、
出自は低く、多才で、その実力一つで王朝を建てた曹操に憧れを持つことは当然と言えば
当然と言える。
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