歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

賈謐二十四友 詳細 ㉓劉輿・㉔劉琨兄弟 その3・・・劉琨は鮮卑拓跋猗盧と手を結ぶも312年に晋陽を失陥。

 

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劉輿は311年に死去。司馬越も同年に死去している。

ここからは、劉琨単独の話となる。

劉琨が司馬越の次弟司馬騰の後任として、

并州刺史となったことは先に述べた。

 

繰り返しになるが、

并州は、司馬越・司馬騰兄弟にとって兵権の根源地である。

政権を奪取の源泉となった重要な土地である。

北は雁門郡から南は上党郡まで、州都は晋陽である。

 

さらに、匈奴(漢と称す)の劉淵が反乱を起こしていて、

国防上の問題もある。

劉淵が決起したのは、

并州の最西部、離石である。

雁門郡は現在の大同、すなわち代である。

 

その北方には鮮卑族の拓跋部が割拠している。

 

内部にも異民族は存在している。

曹操以来の政策で、

黄巾の乱から始まる後漢の内乱は急速な人口減少を招いた。

そのため、

漢民族ではない異民族を、強制移民させ、中華と呼べるエリアに

住まわせていた。

 

羯という匈奴の一部族は上党郡にいた。

その出身の石勒は上党郡で司馬騰により奴隷として売っぱらわれたという

話が有名である。

 

結果論ではあるが、

意図せず民族のモザイクができてしまったのが西晋当時の并州である。

 

内憂外患ではあるが、

彼ら異民族は、日常的に騎馬を扱い、戦いが滅法強い。

 

中華の漢民族は、馬に乗れない。

馬を扱えない。

呉討伐の功労者で、司馬懿の娘婿杜預が

馬に乗れなかった、それでも軍事司令官が成り立つように、

馬に乗るという文化は本来ない。

 

趙の武霊王が胡服騎射を導入しようとして国内から

大きな反発を招いたことからもわかるように、

胡人、すなわち異民族の文化で、見下している習俗の中に、

騎馬がある。我々日本人には分かりにくいことだが、

騎馬イコール異民族なのだ。

 

けれども、騎馬、騎兵は高い戦闘力を持つ。

 

原始的な戦いとしては、

騎兵たちは白兵の集団に突撃する。

突撃と言っても、ある種の体当たりだと思っていい。

馬が全速力で来る。ただそれだけで大きな脅威だ。

 

その後、騎兵たちは撤退する。白兵たちの一部が追撃して来る。

そこを再度騎兵たちは立ち戻って各個撃破する。

これが古代匈奴の戦法である。

 

後に、敵部隊の側面や後方を不意打ちするという遊撃戦という部隊戦法も

現れるが、個としての騎兵の有用性はこの匈奴の戦法が一番分かりやすい。

 

なお、戦いにおいて、獲得した物資や人間は、全てそのまま勝ち取った者の

所有となる。

悪い言い方をすると掠奪となる。

異民族にとっての戦いとは、経済活動の一環である。

これは狩猟と同じ位置付けである。

物資の分配方法は完全実力主義で、

彼らのモチベーションたるや推して知るべしである。

戦果が乏しければ、妻に愚痴られる。

それは古今東西変わらない。

モチベーションが上がらないわけがない。

 

だから、戦争に強い異民族の王はすぐに大勢力を作れるのは、

この王の下に行ったら、いい暮らしができるぜという非常に分かり易いものだった。

 

少し長くなったが、

劉琨はこうした難しい経営を求められる、并州を管轄することになった。

 

司馬騰が兄司馬越とともに八王の乱を戦っていた。

司馬騰は特に司馬穎が籠る鄴攻略を成功させた。

しかしながらその間隙を突いて匈奴の劉淵が并州で決起、

并州は大混乱に陥った。

 

北方の拓跋部の支援を受け、劉淵を攻撃するが勢いは止められない。

 

そうした中の307年の劉琨の并州刺史就任である。

 

匈奴中郎将を兼ねる。匈奴中郎将は、南匈奴単于を護衛する役目である。

現在は匈奴の単于の血筋である劉淵が反乱を起こしているので、

すなわち反乱を鎮圧し、匈奴を掌握して秩序を回復する役目を明確に負って、

劉琨は并州の州都晋陽に赴任した。

 

司馬騰が二万戸を引き連れて鄴方面に移動してしまったため、

并州に残留している漢人は非常に少なかった。

晋書によると、200戸あまりとされる。

劉琨にとって、状況は絶望的と言ってよい状況であった。

そうした中で唯一の救いといえば鮮卑族の拓跋部の支援であった。

 

拓跋部は司馬騰時代から連携している。

劉琨もその路線を継承する。

劉琨并州赴任時の拓跋部の領袖は拓跋猗盧(たくばついろ)である。

 

少し横道に逸れるが、

拓跋猗盧は、後の北魏鮮卑族の祖先である。

この劉琨の事績は、晋書に多く依拠するが、

晋書は、鮮卑の後裔・唐の時代に成立している。

すなわち拓跋部、拓跋猗盧を積極的に讃える立場の人間が

拓跋猗盧の事績を書いている。

漢の末裔で漢人の象徴となり得る劉琨を積極的に助けたという

拓跋猗盧のエピソードが多いが、

ここは少し割引いて考える必要がある。

 

劉琨の事績に戻る。

 

雁門郡で烏丸の反乱が起きたとき劉琨は出撃、

拓跋部の拓跋猗盧と連携して、対応。このタイミングで上党も匈奴に降伏している。

 

しかしながら、

劉琨の出撃により、空になった晋陽を、

劉淵の息子劉聡に襲われ、

あっさりと晋陽を陥落された。(312年)

 

劉琨は劉聡を攻撃するも、

晋陽は取り返すことができない。

拓跋猗盧は、劉聡を滅ぼすには時期尚早と思い、

劉琨のために牛羊、車馬などを劉琨の元において、

立ち去ったと晋書にはある。

しかしながら、異民族にとっての戦争は、経済活動であり、

物資を置いて去るなどはあり得ない。

忠義や尊皇思想などがあるのなら話は別だが、

漢人の異民族に対する差別意識は相当に強いものだった。

にも関わらず、異民族が漢人に協力するのは、

経済活動、人間を対象にした狩りができるからである。

晋書の視点では、拓跋猗盧が、劉琨に積極的に協力をしたとした方が

体裁が良いのである。

 

晋陽を落とされ、取り返すことができなかった、

劉琨は晋陽の南東陽邑に落ち延びる。

 

この一件で、劉琨は并州の重要拠点を含む大部分を失った。

それは下記である。

・北の雁門郡。すなわち代、拓跋部はこの北方に本拠がある。

・中心部晋陽。晋陽を中心に并州の各地へアクセスできる。

・南部の上党。

盆地として自立しているエリアで、

春秋戦国時代から肥沃で、かつ鄴や洛陽方面へアクセスできる要衝。

 

を一挙に失ったのである。