歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

石崇が「賈謐二十四友」を作った。

賈謐二十四友は粒揃いである。

 

哲学者、文学者、詩人、文化人が揃いに揃っている。

血筋の良い者もいて、武帝の子の舅になっている者もいる。

武官の者もいて、西晋に殉じた者も多い。

 

当時を代表する傑物ばかり集まっている。

 

しかし、

賈謐二十四友と言うと、

あまり良いイメージを持つ人はいないのではないだろうか。

 

賈謐といえば、

やはり叔母の賈后を思い浮かべてしまう。

 

賈后と言えば、

肌の黒い醜女で残忍であるという印象しかない。

 

それが真実かどうかはさておき、

賈謐は賈后の影響を受け、

権力を握ったボンボンの印象しか持ち得ないだろう。

 

それを支えたのが、

賈謐二十四友という流れとなり、

その筆頭、はじめに名前が上がるのは、石崇である。

 

石崇と言えば、

すぐに思い浮かぶのが、

王愷との贅沢競争である。

 

王愷は、東海王氏で、

祖父は王朗、父は王粛、叔母は司馬昭の正妻王氏(王元姫)

である。つまり、武帝司馬炎の母方の従兄弟に当たる。

 

 

王愷が麦の飴や乾飯を燃料にして釜を炊くと、

石崇はロウソクで炊く。

 

武帝司馬炎は、石崇。王愷の贅沢競争に関して、

従兄弟の王愷を応援していた。

武帝司馬炎はそこで王愷に珊瑚を与える。

武帝司馬炎から与えられた、

高さ50センチほどの珊瑚を王愷が見せびらかすと、

石崇はそれを鉄棒で粉々に砕き、

王愷が怒ると、そう残念がるな、貴君に珊瑚を返そう、と言って、

倍の大きさの珊瑚を6、7個見せびらかすとといった

様相であった。

 

このような贅沢、奢侈が一般的に受け入れられるわけがない。

 

西晋期における贅沢奢侈の代表が石崇であり、

それが賈謐二十四友として賈謐と結びつけば、

悪い印象しか残らない。

 

石崇に関して、

冷静に考えてみる。

 

贅沢奢侈をしていたのは、石崇、王愷だけではない。

他には魏晋革命前夜に晋王朝の丞相で晋建国の功臣何曾、

その子何遵・何劭、

太原王氏で王の子王済、

羊祜の従兄弟羊琇、

賈充の対立派閥の領袖任愷などがいる。

 

他にも武帝司馬炎の奢侈も有名である。

また逆に、

司馬師・司馬昭の従兄弟で司馬孚の子司馬望や、

司馬越の次弟司馬騰の、吝嗇蓄財も有名である。

 

すなわち、奢侈も蓄財も膨大にできるからこそ、批判されているのである。

 

なぜそれが急にできるようになったのか。

 

それは復興経済が理由である。

 

三国時代という戦乱の世を勝ち切った

西晋は中華に平和をもたらした。

 

軍備に力を入れる必要はない。

国境周辺を無人の野にする必要もない。

 

急に戦役が始まって耕作をする人夫を取られることもない。

単純に生産が増える。

 

交易ルートも広がる。

蜀漢を滅ぼせばミャンマー方面への交易ルートができ、

翡翠が洛陽にもたらされる。

 

呉を滅ぼせば、銅がもたらされる。

淮河の線以南が、米の生産地なので、

呉は華北とは食文化すら異なる。

多彩な食物がもたらされる。

 

呉は交州、すなわちいまの広東から北ベトナムを支配していたので、

食べ物も美味しそうである。

 

現代では、珊瑚の名産地は、日本と地中海である。

石崇の珊瑚がどこのものかは定かではないが、

日本から来たものかもしれない。

日本のどこで取れるかと言うと、

土佐、すなわち高知県である。

 

もし日本の珊瑚だとすると、

遼東から朝鮮半島、日本へのルートを確保していないと

珊瑚は洛陽にもたらされない。

 

余談だが、そうなると司馬懿による遼東の公孫淵討伐は、

経済的にも大きな意味があったことがわかる。

 

生産が大幅に増え、各地の名産物が洛陽に集まってくる。

 

つまり280年に中華統一をした西晋は、バブルだったわけである。

上記奢侈を行う高官たちは、

いわば成金である。彼らは交易で儲けたのである。

その中で石崇は経済活動に勤しみ、もっとも成功した者となる。

 

それがまさに、280年から289年までの太康年間に当たる。

なお、「太康」とは、平和の始まりという意味である。

 

大成功を収めた石崇はサロンを開く。

洛陽郊外に金谷園(きんこくえん)という美しい庭園を作り、

美女も集めたが、

そこに文人も集めた。

 

素晴らしい宴には歌はつきものである。

 

まさにバブル期の成金である。

 

ここに集まった賈謐二十四友が、

文才を競い合うことで

太康文学と言われる時代を作った。

 

文化が向上するには

平和というベースは必須で、

向上するためのエネルギーとして富裕層の資金は確実に必要である。

 

美しい金谷園という庭園で、

美女を侍らせ、珍品を陳列し、

美味しい食事と酒を飲む。

 

そこに多彩な文人たちが、

詩歌を詠う。

 

石崇は費用を全て出し、文人たちのパトロンとして彼らの生活支援もする。

 

武帝司馬炎が存命時には好きにやらせてもらっていたが、

武帝司馬炎が崩御すると、そうも行かなくなって来た。

 

後継者恵帝が不安定で、

周辺が争いを始める。

 

外戚同士の争いに端を発し、

クーデターが起きる。

宗族も巻き込んでの戦いは、賈后の勝利に終わる。

 

石崇は自己防衛をする必要がある。

 

そのときに、この石崇の贅沢が身を助けたのだ。

 

ただ司馬望や司馬騰のように、

吝嗇蓄財をしているだけでは、

何も生み出さない。

死後に批判されるだけである。

 

張華も不遇な文人を支援したことで知られる。

最も有名なのは、三国志の著者陳寿である。

賈謐二十四友にも張華の恩恵を受けている者もいる。

張華のスタイルは、朝臣としてあるべき姿で、賞賛されるべき形である。

 

多分に、羊祜なども私財は多かったであろう。

従兄弟の羊しゅう

羊祜率いる泰山羊氏は名族として有名で、

司馬氏が関心を持つほどの力を持っていた。

ただ、羊祜は、自身の政務に財を使った。

貧困福祉などない時代において、

貴族層が施しをすることこそが儒教的価値観の理想であった。

名臣羊祜は多分にそれを行なった。

だからこそ荊州の民に慕われ、死後哀悼されたのである。

 

これも中華の名臣としてのあるべき姿の一つである。

 

だが、石崇のような人物は、

文化の勃興には必要なのである。

 

文化のパトロンとして、

どの文化も確実にその存在はあった。

 

石崇は確かにやりたい放題であっただろうが、

それが賈謐二十四友を生んだ。

現代中国では金谷二十四友と呼ぶ。

 

そして、それが石崇の身を助けたのである。

 

賈后が滅びるまで、

石崇は身を保った。

 

司馬倫が政権を取った後、

司馬倫の執政孫秀に妬まれ、

孫秀は

石崇が寵愛していた美女の緑玉をよこせと言った。

 

石崇が拒否したところ、

孫秀は石崇を逮捕し、処刑した。

 

最上のものを耽溺していた石崇は、

賈謐に媚びることはできたが、

自身の寵愛したものは手放さなかったわけである。

 

石崇の死により、

西晋の繁栄謳歌は終焉した。