歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

賈后の立場はいつも不安定。

賈后が命取りになったのは、

恵帝の皇太子司馬遹を廃したことにある。

 

291年に始まる賈后政権は、イメージとは異なり、

非常にバランスの良い政権であった。

 

実務能力の高い、張華・裴頠を中心に、

外戚、宗族、名族、賈謐二十四友を中心とした寒門がバランスよく政権に関与した政権であった。

 

しかしながら、

恵帝の後継者問題に端を発し、大乱へとつながっていく。

 

そもそもの問題は、賈后が男子を産めなかったことにある。

賈后は恵帝との間に子は四人いるものの、

全員女子であった。

 

司馬遹は、恵帝が即位した290年に既に皇太子に立てられていた。

恵帝は暗愚であるが、

司馬遹は、武帝司馬炎に才能を愛されていた。

司馬炎の祖父司馬懿の気風に似ているとされたため、

早々に皇太子になっていたのである。

 

そこに賈后が異論を挟む余地はなかったであろうが、

内心穏やかではなかった。

 

自身が男子を産めば、

早々に皇太子をすげかえようと考えていた。

 

しかしそれは叶わず、

この

皇太子問題が起きた299年に

賈后は42歳になっていた。

 

現実的に子を新たに産むには難しい年齢になってきている。

恵帝も40歳となり、次の皇帝という問題が現実化する年齢である。

 

にも関わらず、

皇太子は賈后および賈氏一門に対する反発を強めてきている。

 

賈后にとって非常に危うい状況であった。

 

賈后は世間で言われるほど強気ではない。

賈后は実は非常に不安定な立場に置かれていた。

 

282年には父賈充は世を去り、

後見してくれる存在は、母方の郭氏しかなかった。

それも力強いものではない。

賈氏自体は賈充の外孫賈謐が継いだが、

まだ幼年である。

賈充が死去した時には、

5歳ぐらいと言われている。

 

皇太子妃ではあるものの、極めて不安定な立場である。

 

加えて、武帝司馬炎の後継者問題も

賈后に影を落とす。

輿論は武帝司馬炎の弟司馬攸を進める。

司馬攸の正妻は賈后の異母姉である。

 

恵帝が武帝司馬炎の後継者になるかどうかは

不透明な時期が続いた。

 

武帝司馬炎が、試験として恵帝に尚書の仕事をやらせたことがあったが、賈后は裏で手伝っている。

全て適確にこなすと疑われるので、

それなりに誤りを混ぜ合わせて乗り切る。

 

これだけ見ても、賈后が非常にストレスに晒される環境にいたことがわかる。

 

賈后は何とか恵帝を武帝司馬炎の後継者に確定するも、今度は男子が生まれない。

何としても男子が欲しいがうまくいかない。

 

 

嫉妬に狂った賈后は、

恵帝の側室が身籠もるとお腹の子も含めて殺害したこともあった。

武帝により廃されかけたこともある。

楊太后の取りなしでことなきを得たが、

どこでどう間違ったか、

それを賈后は楊太后が武帝司馬炎に告げ口をしたからだと考えた。

 

それが後の賈后により楊氏を討ち亡ぼす動機となる。

 

賈充が死ぬまでは、恵帝が武帝司馬炎の後継者になれるかどうかのストレスが賈后にはあった。

 

賈充が死去した翌年、

司馬炎は司馬攸を左遷し、後継者問題に決着をつけるも、今度は恵帝の後継者を、

賈后の実子にするというまた大きなストレスを抱える。

 

勘違いではあるが、

自分を排撃しようとした楊氏を許さなかった。

 

繰り返しになるが、

賈后は極めて不安定な立場であったのである。

 

それが賈后の第一次クーデターとなる。

 

その後司馬亮に政権を預けるも、

司馬亮は宗族を抑制する行動をとった。

 

それは不安に苛まれる賈后を刺激するのに十分であった。

 

司馬亮では安心できない。

排除する。

 

賈后は第二次クーデターを起こす。

 

張華に政権を預け、賈后は大人しくなる。

 

 

美男子に手を出すなどというエピソードもあるが、

この経緯から考えればそれはあり得ない。

 

賈后が悩んでいたのは、

常に自身の立場が不安定なことである。

 

賈氏の強い後見があるか、

実子が恵帝の後継者になるかのいずれかの条件を満たしていればよかったが、

賈充が死んでからその状態になることはなかった。

 

賈后は自分で自分の身を守らなくてはならなかった。

 

どうしても様々なことに敏感になってしまう状況であった。

 

そうした中、唯一の味方が賈后にはいた。

 

夫恵帝である。

 

私は、恵帝は賈后を少なくとも尊重していたと

考えている。

 

恵帝は暗愚かもしれないが、

知的障害者ではない。

 

賢くはないし、考えが浅いかもしれないが、

判断はできる。

 

ということは、

恵帝が皇帝になれないかもしれなかったことは認識できていた。

その苦境を賈后が救ってくれたこともわかっていた。

 

武帝司馬炎は

何としても恵帝を後継者にしたかった。

絶対に司馬攸を後継者にするわけにはいかなかった。

武帝司馬炎は恵帝を叱責するぐらいのことは当然したであろう。

 

そこを賈后は助けてくれたのだ。

 

嵆紹の忠義がわかる恵帝なら、

賈后が賈后自身のためだったとしても、

それは恵帝に対しての想いなのはわかるはずである。

 

だから恵帝は賈后がどんなことをしても、

最終的には許したのである。

 

恵帝の考えが幼稚なのだとしたら、

恵帝の賈后に対する思いはより一層強いであろう。

 

幼稚ということは、社会性がないことである。

だからこそ一方で、

自分に親切な人間を信じるのは当然である。

 

賈后は元康年間は安定していたが、

自身が子供を産めない年齢になり、

皇太子の反発が強くなると、

不安を覚えた。

 

夫が健在の間は良いが、その後はどうなるのだろう。

 

賈后が先に死んだとしても、

賈氏はどうなるのか。

 

恵帝は賈后を信用してくれてはいるが、

賈后なしでは適確な判断も、決断もできないのである。

 

それをよくわかっているからこそ賈后は不安であった。

 

 

賈后のこの不安を当時の朝臣たちは理解していたのだろうか。