歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

司馬馗家の司馬越、司馬孚家の司馬顒。~傍系の大族~

司馬馗家という単位、司馬孚家という単位で見ると、

司馬越、司馬顒の立ち位置がわかる。

 

西晋の宗族は、

司馬八達世代

司馬師・司馬昭兄弟

司馬炎兄弟

司馬炎の子供世代

 

それぞれが家を作り結束して動く。

 

これは原則となっている。

 

司馬懿、司馬師、司馬昭、司馬炎の子、もしくは兄弟が、

祖となって、家という単位を作る。

 

 

例えば、

司馬越は、司馬八達、すなわち司馬懿の四弟で司馬馗の

孫である。

司馬泰の長男に当たる。

司馬泰は司馬馗の次男で、司馬權という兄がいたが、275年に死去している。

それを受けて、この司馬馗家は、司馬泰を長老としてまとまった。

後に司馬泰は、司馬亮の後を受け宗師となっている。

これは賈后の意志でもあった。

これは司馬氏一門の長老として、指導監督を行う。

西晋独自の制度である。

国家の官職ではなく、司馬氏というプライベートな集団の役職なのだが、

当然宗族というもの自体が公的なものなので、

宗師も自ずから公的な意味を帯びる。

宗師の権限は大きい。

さらに司馬泰は。同時に大尉・録尚書事になっている。

 

賈后は宗師の司馬泰を録尚書事にして、

名目上は後に述べる司馬晃とともに、

司馬泰を政権運営の座につけている。

実際に運営しているのは張華である。

 

司馬泰は吝嗇蓄財家として有名である。

この地位を活かして、私財を増やした。

 

司馬泰は299年に死去し、

司馬馗家の長老は司馬越となる。

これが家督という概念になるのだろう。

司馬馗家の宗師といってもいい。

 

家産の継承まで入ってくると、また違った概念になるが、

字面通り「家を督する」ということである。

 

司馬越が司馬馗家の責任者というわけだ。

だから司馬越の弟たちは結束して司馬越を助ける。

 

これと同様なのが、

司馬顒である。

司馬顒は司馬八達の一人、

すなわち司馬懿の三弟司馬孚の孫である。

父は司馬瓌で、彼は司馬孚の六男にあたる。

叔父に司馬晃がいる。司馬孚の五男である。

 

司馬晃は、

上記司馬馗家の長老、家督であった、司馬越の父司馬泰とともに

賈后政権の名目上のトップとなっている

司空兼録尚書事である。

 

宗族の中で、賈后が政権を獲ったときに、

司馬泰が最年長で宗師となり、

司馬晃がその次だったのだろう。

 

(多分にこの宗師というのは、

一族の最長老がなるものであったと思われる。

尚、司馬泰が299年に死去すると、宗師は司馬肜がなる。

司馬肜は司馬懿の八男で、当時最低でも50歳は超えていた。)

 

司馬晃は296年に死去、

子どもは夭逝していて存命していなかった。

 

司馬顒の父司馬瓌は274年に死去していた。

 

そこで、司馬顒に司馬孚家の長老、家督、司馬孚家の宗師

というポジションが回ってきたのだと思われる。

 

司馬孚の長男、司馬邕は司馬孚よりも早くに亡くなる。

次男司馬望は、司馬孚の長兄司馬朗家を継いでいた。

272年に司馬孚が死去すると

三男司馬輔が司馬孚家を総括したのだろう。

その後284年に亡くなっている。

四男司馬翼は魏晋革命前に早世。

そうして五男司馬晃にお鉢が回ってくる。

 

ここからは上記の繰り返しになるが、

司馬晃が296年に死去し、

司馬顒が司馬孚家を総括するというわけである。

 

司馬顒は、父が司馬孚の第六子ということもあり、

急に出てきた感があるが、そういった事情がある。

 

司馬顒は司馬孚家を代表する。

宗師にはなっていないが、

魏晋革命時、最も封邑をもらったのは、司馬孚である。

それもあって司馬孚家は強い勢力をもっていたのだろう。

 

 

司馬馗家の司馬越、司馬孚家の司馬顒は、

祖父以来の封邑を持ち、

またそれぞれの世代で子弟が封邑を領する。

 

そのため司馬馗家、司馬孚家は

一族として結束すれば、強い勢力になり得るわけである。