歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

西晋恵帝の謎

 

 

恵帝暗愚論に隠された秘密

 

恵帝は暗愚だ、暗愚だと言われる。

あまりに言われるので共通認識レベルである。

よく知られている暗愚な君主は、劉禅だが、

実績からすれば、恵帝の方が暗愚の度合いは大きいであろう。

 

広義の八王の乱は、291年に始まり、306年に終わる。

恵帝の在位は290年から306年なので、

恵帝イコール八王の乱とも言える。

 

評判が悪くて当然である。

存在感も大変薄い。

しかし所々で出てくる恵帝のアクションは、

ただ単純に暗愚=バカとだけで理解できないことが散見される。

 

恵帝の暗愚の度合いはどれほどか。

白痴なのか、知的障害者なのか。

 

西晋恵帝という人物の実態に、

彼の事実から迫ってみたい。

 

西晋恵帝の実態

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・47歳(陽暦で言うと48歳)で死去。

259年生まれ。

306年に死去。(陽暦で言うと307年)

少し早いかもしれないが、特別寿命が短いわけでもない。

 

・文字は書ける。漢字が書けない司馬倫(大叔父)や司馬穎(弟)よりマシ。

詔勅は自分で書ける。文字が書ける。

賈后の言う通り詔勅を書く。

恵帝は皇太子時代に

父武帝司馬炎から尚書の案件を決裁しろと

言われたことがある。

宦官の草案を移すことはできる。

漢字を書ける。

 

・親征ができる。

司馬越に担がれて、鄴の司馬穎を攻めることができる。

→身体は動くし、健康ということである。

 

・家臣の忠誠は認識できる。

嵆康の子嵆紹のエピソード。

司馬越が恵帝を奉じて鄴の司馬穎を攻めたが失敗した。

恵帝は頰を傷つけられるほどの乱軍の中にいた。

侍中の嵆紹は鎧もつけていない中、

恵帝の鳳輦(皇帝の乗り物のこと。ここでは恵帝が乗っている馬車のことを指す。)

に乗り込み、恵帝を守った。

司馬穎軍の兵士が嵆紹を引き摺り下ろし、

斬りつける。

恵帝は「忠臣である。殺すな」と言うものの、

「陛下のみを殺すなという皇太弟(司馬穎のこと)様の命でございます。」

と答え、嵆紹を殺す。

嵆紹の鮮血は恵帝の衣に飛び散り、衣が汚れてしまった。

翌日恵帝は鄴に入る。

使用人が恵帝の衣を洗おうとすると、

「嵆侍中の血である。洗うな。」と言った。

→臣下の忠誠はインプットできる。

臣下が必死で恵帝自身のことを守ろう、

身を賭して行ったことの重大さは理解ができるわけである。

 

・生殖能力はきちんとある。

父武帝司馬炎ほどではないが、

子供たちは複数いる。健康である。

 

・賈后が身ごもっている恵帝の側室を、

戟を投げてその腹の子ごと殺しても

賈后はそのまま。

→恵帝は賈后を処罰するわけではない。

賈后には甘いと言ってよさそうだ。

 

・多数の諸臣は恵帝より司馬攸が武帝の後継者になることを

望んでいた。

→恵帝と司馬攸の相対的評価では、

司馬攸の方が高かったことになる。

但し、司馬攸に際立った実績があるわけではない。

賞賛されるのは、素晴らしく孝行するというほどのものである。

 

・賈后の第一次クーデターの際、

楊駿の甥段広が楊駿の命乞いを恵帝にするも。

恵帝は何も答えなかった。

→何かの意図があって答えなかった。

言っていることがわからなくて答えなかったという線もあるが、

上記でわかる通り、字が書ける時点で白痴ではないのでそれはない。

 

・賈后の第一次クーデターの際、

楊太后の扱いについて、賈后は永寧宮に幽閉した。

賈后は敢えて楊太后と、その母龐氏が一緒にいるのを許した上で、

高官たちに働きかける。

彼ら高官は賈后の意を汲み、

恵帝に上奏する。

楊太后を庶人の身分に落とし、

金墉城(洛陽北東にある、いわゆるロンドンタワーと同じ役割)

に幽閉すべしというい上奏が相次ぐ。

恵帝は最初認めようとはしなかったが、

ついに許す。

それでも、楊太后が母龐氏と一緒にいるのを許していた。

しかしながら、断固とした上奏が続き、

遂に龐氏の処刑を恵帝は裁可する。

楊太后は、賈后に対して、妾と自身を卑称して母の命乞いをしたが、

賈后に無視される。

龐氏を処刑し、楊太后はそのまま監禁し、食事を与えず、放置。

8日目にして楊太后は餓死した。

楊太后は恵帝にとって、母の再従姉妹(はとこ)に当たる。

→楊氏に憐れみの気持ちを持ちながらも、

賈后の意思に渋々折れる恵帝の姿である。

憐れみの心がある。

しかし最終的に賈后の意思に従った。

血族の楊氏より、恵帝は賈后を取った。

 

・皇太子を廃するかどうかに関しては、

賛成の賈后と、

反対の張華・裴頠それぞれの意見を聞いて、

裁可している。

→賈后の言いなりでもない。実子の皇太子を簡単に見捨てているわけではない。

 

・司馬倫による

反賈后クーデターの際には、司馬冏に身柄を確保されるが、

その際賈謐を恵帝の自筆の詔勅で召喚している。

当然賈謐はその場で斬り殺される。

→騙されたのか、脅迫されたのか。

非常事態なので恵帝の行為がどういう背景の元なのかわかりにくい。

 

・300年8月に

恵帝の弟司馬允が司馬倫に対してクーデターを起こす。

その際、戦闘停止の騶虞幡(スウグハン)と、

戦闘鼓舞の白虎幡(ビャッコハン)の違いがわからないというエピソードがある。

それを持って恵帝をおろかであると言う。

→これは、軍事上の戦旗運用方法を恵帝が理解していなかったというだけである。

280年に征呉がなり、20年近く戦乱は無く、

このような軍隊の細かい運用方法まで皇帝が覚えておかなくてはいけない必要性を

感じない。直に職務に当たる官吏が認識していればよい話である。

また、このエピソード自体が疑わしいという話もある。

http://sinyousyuden.blogspot.jp/p/blog-page_12.html

騶虞幡も白虎幡も無く、ただ皇帝の意思ここにありという意味合いを持つ、

旗があっただけだということである。

そうなると錦の御旗と同じ位置付けである。

このエピソードは、恵帝を貶めるためのものと考えた方が納得がいく。

 

 

・身内の無礼は覚えている。

司馬倫の皇帝簒奪に対して、

司馬冏らが挙兵し成功する。

恵帝は太上皇にさせられていたが、

皇帝に復位する。

司馬倫が皇位を簒奪する際に

司馬望の孫で司馬威が恵帝の玉璽を奪った。

これに対する恵帝の憎悪は甚だしく、

「阿皮(司馬威の幼名)は朕の指を捻って、

朕の璽綬を奪った。殺さずにいられるか。」

→記憶力はしっかりとある。

憎む感情を持ち、処刑するほどの決断力も持ち合わせている。

 

 

・司馬顒の将軍張方により長安に連れ去られそうになった時には、

走って逃げている。

しかし捕縛され、連れ去られる。

張方は馬上で稽首するという無礼をするものの、恵帝は張方に従う。

→状況理解ができる。

嫌なことは嫌と判断でき、逃げるという行動に移すこともできる。

 

・長安に連れ去られた恵帝だったが、

司馬越軍の巻き返しにより、今度は司馬越軍に身柄を捕捉される。

長安から洛陽に移されるが、

その際牛車に乗せられた。

牛車は本来皇帝が乗る乗り物ではない。

→我慢ができる。

 

306年11月17日恵帝は麦餅を食べて中毒を起こし、

翌日崩御した。享年48歳である。

→司馬越が毒殺したという方が流れとしてはわかりやすいが、

毒殺説は南宋の胡三省の説が初出のようだ。

判断が難しい。

 

 

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北宋司馬光の西晋恵帝暗愚偽装論

 

恵帝と嵆紹のエピソードを持って、

北宋の司馬光は恵帝は暗愚ではなく、暗愚を装っていたのだと主張している。

が、これだけでは論拠に乏しいと私は考える。

司馬光は司馬孚の末裔としているので、西晋に同情的なのは否めない。

更に言うと、司馬光の政治スタンスは旧法である。

旧法はすなわち積極的には何もしないというものである。

これは前漢初期において相国曹参に代表される老荘思想政治のことである。

徳のある人物が上に立ち、身を修めれば天下は治るという考え方である。

漢における伝統的な考え方で、これは西晋にも受け継がれていた。

西晋は名族儒家政権である。

武帝司馬炎が呉を滅ぼして堕落し贅沢に奔ったという論も多いが、

これは上記のスタンスと復興経済によるバブルのため派手に見えるだけである。

 

つまり、天下が定まれば、身を修めればよく、積極的には何もしない

というのが当時の中華皇帝をはじめとした最上流層の嗜みなのである。

その影響を恵帝が受けていないはずはない。

 

積極的には介入しない、これが当時の中華皇帝としての在り方なのである。

暗愚を装うも何も、司馬光のスタンスから西晋恵帝を見れば、これは本来理想の帝王なのである。

 

蜀漢劉禅も、そのスタイルから見ると、

名君になる。重要なポイントでは劉禅自身が決定する。

そして治世40年に渡って次々と優秀な臣下が輔弼をしてくれるのだから。

 

 

西晋恵帝 実態のまとめ

 

まとめると、

・健康的である。

・身体は晩年までしっかり動く。

・漢字が書ける。

・漢文を筆写できる。

・臣下の忠義は理解できる。

自身への親切はわかる。

・生殖能力がきちんとある。

・賈后に甘い。弱い。

・臣下のお願いに、答えない、という行為ができる。

その意図するところは、黙殺か、理解できないかのどちらか。

・血族の楊氏よりも賈后を取った。

感情的な血族への思いよりも、

婚姻という社会文化でのつながりを取った。

→ここに恵帝の積極的な意思を感じる。

・賈后の完全な言いなりでもない。

・記憶力がある。

・決断力もある。

・嫌悪・憎悪の感情を持ち合わせている。

・自分で逃げることができる。

・我慢ができる。

 

また恵帝の治世下、大きく見ると、

賈后が存命の際には恵帝の存在感はあるが、

賈后が殺されると無くなるのも気にかかる。

賈后が死んだ後の恵帝は身柄を拘束されるか、逃げるかのいずれかである。

 

ということで、

私は下記のストーリーで恵帝を考える。

 

恵帝は決して賢くはないが、とはいえ白痴でもない。

結論として私は幼いということだと考える。

 

だから恵帝は自身にしてくれた親切は、例え表面的であったとしても

感謝ができる。

 

となれば、恵帝は確実に賈后に対して感謝をしたはずだ。

恵帝が皇帝になれたのは賈后のおかげだからである。

 

恵帝は、

恵帝自身の能力不足と、父帝武帝司馬炎の高い期待の間で、

悩まされたはずだ。時に武帝司馬炎は恵帝を叱責することもあっただろう。

それを助けてくれたのは、賈后なのである。

恵帝が賈后を信頼しないはずがない。

 

忠義に対する感謝も、宗族への恨みも持ち合わせており、

それは正常な人間の感情である。

 

賈后への信頼があったからこそ、

恵帝は楊氏排撃、司馬亮の殺害を事実上認めた。

どれも恵帝の立場を脅かすものではないからだ。

 

賈后は賈后で、実家の支援が乏しく、

賈后自身の身を守るためには恵帝の支持だけが頼りなのである。

 

つまり、恵帝と賈后は一蓮托生の仲なのである。

 

恵帝という権威の下、

賈后は恵帝=賈后として、自分たちを守った。

恵帝が賈后の意向とずれるのは、

皇太子を廃するときであるが、

これは賈后の身を守るのみで、恵帝には関係がないからである。

 

賈后が司馬倫のクーデターで殺されると、

恵帝は賈后という耳目を失った。

誰を信じていいかわからなくなったのである。

 

司馬倫のクーデター以降は恵帝は逃げ惑うのみである。

 

恵帝は判断が出来なくなった。

権力を振るうことが出来なくなった。

 

西晋恵帝 三つの時期から実態を考察する。

 

恵帝の人生には三つの時期に大別できる。

 

一つは皇帝になるまで。

恵帝の能力は低いが、賈后の助けがあって皇帝になれた。

恵帝が皇帝になりたかったかどうかは不明だが、

武帝司馬炎の強いプレッシャーから守ってくれたのは賈后なのは

確実である。

 

二つ目は

皇帝になってから賈后が死ぬまで。

賈后自身の自己防衛のためとはいえ、

この時期は恵帝にとって快適な時期である。

治世は落ち着いており、武帝司馬炎のプレッシャーもなく、

恵帝としては満足な時期だったのではないか。

賈后の少々の無茶も、それは恵帝自身のメリットにもなることであり、

許してきた。

恵帝が賈后を通して、状況をコントロールできる時期であった。

恵帝と賈后がすれ違ったのは皇太子の処遇だけであった。

 

三つ目は、

賈后が死んでから、恵帝が崩御するまでである。

この時期は、諸王に翻弄され、恵帝が政権運営において

全く自分自身を出せなかった時期だ。

誰を信じていいかわからなかった時期である。

恵帝にとって暗黒の晩年であったであろう。

 

 

賈后あっての恵帝だったのである。

 

 

 

 

 

2ページに司馬衷についてのコメントがある。

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