歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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八王の乱⑨ 司馬倫の輔佐孫秀が賈后政権を終焉させる。

賈后は恵帝の後継者争いに始まり、

賈后の実子の問題に至るまで常に不安に苛まれていた。

 

父賈充は権臣とはいえ、

もう一人の娘が恵帝の後継者争いのライバルに嫁いでいるのは大きい。

 

賈后がクーデターを起こした291年から299年までは

安定していた。

 

しかし、

後半になると、

賈后自身がもう男子は産めないかもしれないと

思うようになる。

 

皇太子司馬遹(シバイツ)

との対立は激化。

それはそうだろう。

 

賈后および賈氏一派が権限を握り、

皇太子にとっては目障りでしかない。

 

反発を覚えるのは当然である。

 

しかし、それは賈后の不安を煽るのに十分だった。

賈后は常に不安に苛まれている。

 

少しの刺激で爆発するのである。

 

賈后は身を守るため、皇太子司馬遹を殺害することを

決意する。

 

皇太子を恵帝の命と称して、酒をたらふく飲ませて

酩酊させる。

その上で、強引に文字を書かせる。

潘岳が作った文章を写させた。

それは、恵帝への反逆を意味する文章だった。

 

それを恵帝に見せる。

恵帝は賈后の進言通り、殺害を決める。

 

このあたりが恵帝が暗愚と言われる部分の一つだろうが、

恵帝は賈后がなくては皇帝たり得ないのである。

 

賈后あっての恵帝なのである。

恵帝にとって賈后は第一の忠臣であることは間違いない。

 

賈后政権の事実上の運営者、張華と裴頠の強い反対があり、

皇太子を廃するのみで賈后は受け入れる。

 

これが賈后の致命傷となった。

 

このあたりが賈后の甘さであり、

よく言われるような残酷な人物ではない部分だ。

 

皇太子など暗殺すればよい。

 

しかしでっちあげとはいえ賈后は証拠を作って、

恵帝の承認を得るという道を辿る。

 

賈后は張華と裴頠が皇太子殺害に同意しないことを

知っているので巻き込みもしない。

 

賈后は潘岳は自己保身のために

賈后に従うことを知っている。

その一方で、張華と裴頠が賈后に媚びているだけの人物ではないという

認識が賈后はできるのである。

 

賈后は恵帝の承認を得る、朝廷の承認を得るという

比較的正攻法で行ったことで、

皇太子を抹殺できなかった。

 

これにより、

賈后に反発をする一派が皇太子を

旗頭に巻き返そうとする。

 

どんな政権にも不遇をかこつものはいるものだ。

 

反賈后=旧皇太子派となり、

賈后排斥を画策する。

 

後漢の歴史や司馬懿が曹爽を排撃した正始政変からも

わかる通り、

このパターンになると、

基本的に宮中クーデターである。

 

洛陽を押さえる軍権を持つ者を味方につけるのが必須となる。

 

皇太子派は司馬倫を謀議に加えようとする。

 

司馬倫は当時車騎将軍である。

軍権においてはナンバー2である。

軍を押さえるにも、政権首班の司馬肜の本心を探るのもうってつけの相手が

司馬倫だった。

 

当時名目上の政権首班は司馬倫の異母兄司馬肜(しばよう)である。

大将軍・録尚書事である。

 

司馬肜は、

299年に死去した司馬泰の後を受けて政権首班となる。

宗師も司馬泰から受け継ぐ。

司馬肜は、清廉潔白なだけで何の能力もない。

あくまでも名目である。

 

司馬肜も司馬倫と同様、

司馬懿の晩年の息子である。

両者とも生年は定かではないが、

司馬懿は251年に死去しているので、300年当時

司馬肜・司馬倫ともに50歳は過ぎている。

 

司馬師・司馬昭の異母弟にあたるが、

それぞれ、208年、211年の生まれなので、

一般的な父親と同じくらいの年齢差であるので、

自ずから交流は上下関係が明確なものであったはずだ。

 

またほかにも司馬亮、司馬伷、司馬駿という兄もいたが、

この三名は母を同じくしていた。

 

ということで、末弟同士の司馬肜と司馬倫の交流が頻繁に起こるのは

想像に難くない。

 

とはいえ、名目とはいえ、賈后政権において、

名目上の首班となって、賈后を支えている司馬肜に

いきなり賈后打倒の話をするのは危険すぎる。

 

その本心を探るために、

司馬倫を相手にしたわけである。

 

しかし皇太子派にとって、司馬倫すらも危険だった。

 

そもそも司馬倫は、皇太子と不仲であった。

 

賈后を打倒して、皇太子を復権しても、

司馬倫にとってデメリットしかない可能性が高い。

 

そこで、司馬倫は皇太子派の企てを賈后にリークした。

そうして賈后に皇太子を殺害させる。

300年3月のことである。

その上で、司馬倫は兄司馬肜の支持を取り付け、

そして亡き皇太子派を率いて、賈后に対してクーデターを起こす。

兄で宗師で政権首班の司馬肜を巻き込むことに成功した。

皇太子を殺害した賈后一派を打倒するという、

大義名分を得ていたので司馬肜の了解も簡単に得られる。

そして幅広い支持を得た。

 

これはとても司馬倫の企てとは思えない。

司馬倫の輔佐孫秀の企てであろう。

両者を攻撃し合わせて漁夫の利を得るという。

 

賈后は自殺させられ、賈謐をはじめ賈氏一族は族滅となった。

 

司馬倫は、張華と裴頠に恨みがあったので、

殺害した。

しかし、賈謐の与党と見られていた賈謐二十四友は

そのまま赦免し引き続き登用した。

 

司馬倫は、個人的に恨みのあった張華と裴頠以外に関心がなかった。

 

司馬倫の行動を考えれば、想像もつく。

何らかの配慮、心づけであったり、融通であったりを、

張華と裴頠に求めたのだろう。

ところが、彼ら張華と裴頠は教養人であり、

政権運営をできる能力のある真面目な人間なので、

真正面から断った。

 

それを司馬倫は恨みに思ったのだろう。

 

張華と裴頠を許容できる賈后と、

許容できない司馬倫。

 

どちらが、有能なのかは明白である。

 

司馬倫が賈后を打倒してから、

狭義の八王の乱が始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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