歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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八王の乱⑫ 司馬倫の賈后打倒は宗族クーデターである。

 

 

司馬倫のクーデターは

賈后に対する宗族クーデターだった。

 

西晋の皇族である、河内司馬氏には、

八王の乱の時点で、

四つのカテゴリーの勢力がある。

 

そしてそれはそれぞれ家の単位で自己防衛を図る。

 

①司馬懿の兄弟世代

②司馬師・司馬昭の兄弟世代

③武帝司馬炎の兄弟世代

④恵帝の兄弟世代

 

それぞれがそれぞれの血統で家を建てる。

この四世代の家々を宗族と呼ぶ。これらの長老として宗師がある。

宗師は政権の官職ではなく、私的なものである。

日本で言うならば、氏長者に近いか。

 

宗族のプレイヤーはこれだけいる。

①司馬懿の兄弟世代→司馬朗家・司馬馗家、司馬孚家

②司馬師・司馬昭の兄弟世代→司馬肜・司馬倫・司馬伷家・司馬駿家

③武帝司馬炎の兄弟世代→司馬攸家

④恵帝の兄弟世代→恵帝自身・司馬允・司馬乂・司馬穎・司馬晏・司馬熾

 

※「家」が付いていない者は本人である。

 

 

司馬倫が宗師で兄の司馬肜(シバユウ)を語らい、挙兵、

実働として司馬冏(シバケイ。武帝司馬炎の同母弟司馬攸の子)が活躍した。

 

宗師が動いている時点で、

司馬氏を特に優遇しているわけではない、賈后につく司馬氏はいない。

 

武帝の子司馬穎は

恵帝の皇太子司馬遹と親しく、

当然クーデターに参加する。

 

司馬顒は司馬孚家の総帥として参加。

 

但し、

司馬馗家の司馬越らは不参加。

ここが抜けているので分かりにくいが、

喪に服していたためである。

 

宗師として賈后政権を支えていた

司馬泰は299年に死去していた。司馬泰の次の宗師が、司馬肜である。

300年の賈后へのクーデターの前年に当たる。

 

だからこそここでは司馬越が出てこない。

 

ということで、

司馬倫がリードして謀議、

司馬肜を誘い込み、司馬攸家(司馬冏)が実働として動くという構図である。

司馬穎、司馬孚家(司馬顒)が明確に参加。

司馬馗家は喪中の為不参加。

 

司馬朗家は、司馬朗の養曾孫司馬威が、司馬倫の簒奪に与しているので、司馬倫クーデターに参加。

司馬伷家は、司馬伷の遺言により、子がそれぞれ独立しているので、行動がばらばらである。

子の世代でいうと、次男司馬澹は妻が郭氏で、賈后に連なるので、不参加。

三男司馬繇は兄司馬澹との対立が原因で、

遼東に流刑となっていたので不参加。長男司馬覲はすでに死去、後を司馬睿が継いでいた。

司馬睿が司馬倫クーデターにおける事績は不明である。

司馬駿家は、司馬歆が司馬倫クーデターに参加。司馬歆は、司馬倫滅亡後司馬冏に献言している。

司馬允・司馬乂・司馬穎・司馬晏・司馬熾らは、武帝司馬炎の子で、恵帝の弟であり、

司馬倫の簒奪に明確に敵対する立場である。

 

ということで、

 

賈后に対する司馬倫のクーデターは、

宗族のほぼ全員が参加したものとなる。